2011年11月28日

「藤原新也の底力」


齢、67を数える2011年の藤原新也は、身を削るように生き、巨大な和紙に純白のカスタムメイド装束を纏い、巨大な筆を叩きつけ、また新たなる次元へと昇華した。

こんなつまらぬ書き出しで申し訳ない。
しかし、私が素直に感じたことを素直にタイプしてみた、ということは事実。

115日(土)に公開され、昨夜1127日(日)に閉幕した藤原新也氏のモンスター個展。
ほぼ三週間というもの、巨大な空間に巨大な書と、そのサイズに合わせるかのように限界まで引き延ばされ美しく印画された写真の数々……。
もはや個展というより“エキスポ”であった。


小生はオープニングの115日の晩と、国産の優れたドキュメンタリー番組を作らせたら、このひとの右に出るもの無し、の、名ディレクター、七沢潔(ななさわ きよし)氏とのトークがあった13日の晩と、昨夜27日のクロージング、といった具合に、計3回ほど会場を訪れた。
そして、その3回とも、同じはずの空間が、まるで異なって私の周囲を取り囲んだ。

あの魔法のような「地場」は、一体、何だったんだろう……

おそらく、藤原新也という男は、孤独を装いながらも……おのれが発した何某かに敏感に反応する数多くの不思議な人々から……人知を超えた手段で……ひとりひとりから少しずつ……ささやかなエネルギーを徴収しているのかもしれないし、或いは、おそらく、そうでないかもしれない。

今回の「写真・書」の展示会は、前回の個展からそれほど経たぬ間に開催された。
まず今年の3月に銀座で短期間、小ぶりの写真とコトバをセットにした(やはり素晴しい)個展がスタートした。
ところが最終日まであと数日というところで、「
3.11」が起こり、画廊も多少のダメージを受けた。一時、休廊かと思いきや、数日もしないうちに展示延長が決定され、余震が幾度もある中、3月いっぱい続展され、画廊には義援金箱も備えられた。
その間、当の藤原氏はすぐにフクシマ入りし、被災地を他のあまたな写真家やフォトジャーナリストが似たような写真ばかり撮る中、本人の言葉を借りれば「点と点の移動ではなく線で見てゆくことが重要だ」と、独自のルートと視点で他の誰も真似できないような写真を撮った。



銀座で延長して続けられていた個展が終った時、作品の売り上げと募金を義援金として、みずから再度フクシマ入りした。

まだ半年ちょっとしか経っていない。

でもその半年ちょっとの間に、日本は幾度もひっくり返りそうになった。もちろんいまもこれからも、こんな状況は続き、そのうち本当にひっくり返ってしまうことだろう。

 
また余計なことまで書いてしまった……

とにかく、巨大な展覧会を終えたばかりの藤原新也氏は、
「四半世紀前に編んだ『東京漂流』以来のピークだと思う」というようなことを、正確ではないが、言っていた。

“藤原新也”にとっての2011年という年は、震災や原発問題ぬきにたとえ語ったとしても、解き放たれた彼の作品や言葉たちの、その溢れんばかりのエネルギーと、無尽蔵かとも思わせる驚異的な創作意欲と、それらすべての質の高さが、確かにそう物語っている。
さらに、淀むことのない露出(「発表」という行為のコンスタントな濃度)が、意図的かどうかは別として、いっときも停滞することのなかった活動期間……だったと(すくなくともハタ目にはそう思えた)。

次から次へとおおやけにされる同氏の作品や、的を射た言動の結晶たちは、みずから生を受けたかのように光り輝き、当の“藤原新也”本人に向って、やまびこのように増幅されリバーヴされ、降りそそがれていた。
藤原新也-2011年11月画き修め.jpg

こんなご時世、己の作品を前に、あんなイイ顔できるクリエーターは、日本にはそうなかなかいるもんじゃない。


         ◆

ここで少し個人的なハナシをしてしまう。
「藤原新也」という存在との“最初の遭遇”について。

実は筆者がこの人物の存在を知ったのは、そう昔のことではなかった。
ハタチになってすぐの頃、
17才から断続的にも続けてきた長い放浪の末、どうにか強引に辿り着いた真冬のニューヨーク。当時、既にカネも底を尽きかけ、路上で絵を売ったりパフォーマンスをしたりしながら日銭を稼いで、聞こえが良いが、ホテル暮らしをしていた。身寄りのいない老人や、奇人や変人やジャンキーや娼婦や売れない自称アーテストたちがその「ホテル」の住人。かつては娼館だったという。昔からオーナーが値段を変えないため、四十年以上もそのホテルに滞在している老人もいた。さらにマンスリーで払うと不気味なほど安くしてくれ、滞納も大目にみてくれていた(最近知ったが、そのホテルはその後、解体されて跡地には味もそっけもない三ツ星ホテルが建っているそうだ)。そんなある日、入口近くの廊下で、とある日本人写真家と知り合った。彼が当時、発売されて間もない『丸亀日記』と『アメリカ』を貸してくれたのだった。いや、待てよ。その日本人写真家に藤原新也という名を教わり、ロックフェラーセンターにある紀伊国屋書店で『全東洋海道』を立ち読みし、「オレが十代最後の数年間に何度となく旅したルートとほとんど同じ道じゃないか!」とつぶやいた瞬間だっただろうか? そんなことはどうでもよく、初めて本人と対面したのは、そのずっと後。ちょうど『メメント・バリ』という幻惑的な写真集を藤原新也が発表した頃だったと思う。ミレニアムの年で、筆者は長かったイスラエルとパレスティナでの生活を切り上げ、一時帰国していた頃だった。
それからまたさらに十年以上が経っている。

(なんてつまらない記述なんだろう!)

そして、いまだ圧倒されたり笑わせてくれたり驚かされたり煙にまかれたり、と、このマルチプルな奇才は“新鮮”でいつづけてくれている。

つくづく貴重な存在だと思う。




posted by タケシ・トラバート at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月01日

たまにはポートレイト写真館【映画の人名録】

映画のひと ポートレート

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最近、言葉が乏しくなってきたため、この約一週間で撮影した写真からポートレイトを何枚か……

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                             コピーライトマークby Takeshi Taraubert Marumoto

上から、マイケル・ウィンターボトム監督、ヴィム・ヴェンダース監督、ジャッキー・チェンさん、ジェレミー・トーマス名プロデューサー、八千草薫さん、と…… 以下省略、で失礼!
posted by タケシ・トラバート at 01:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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