2012年01月15日

「我々が生涯で最も知りたいこととは」



★しんらばんしょうのひとかけら.jpg






と、いうタイトルと、個々の答えリストは、私が長年に渡って少しずつ手を染めてきた重たいライフワークのひとつ。

「我々」、という表現はいかにも漠然としているので、
「人類」、といった風にもう少し具体化してみる。
いや、それでもまだ漠然としているので、
単に「人間」、という風に身近なコトバに置き換えても差し支えない。

それはともかく、この地球という惑星に生息する我々ヒト科の知的好奇心として、
“何を置いても知りたいこと”のヴァリエーションは、さほど多くないと思う。
たとえば、
「いつ我々が住む宇宙が誕生し、人類が誕生し、いつ我々が住む宇宙が消滅し、人類の記憶が永遠に失われるのか?」
「神はここ数千年間、厄介な病にうなされ高熱で耄碌朦朧、昏睡状態なのか?」
「リインカネーション?」
「あのコは俺に飽きたのか?」
「次の余震は?」
「女、とは?」
「男、とは?」
「森羅万象とは?」
etc.

ヒトそれぞれ多種多様だろうけれど、どれも突き詰めて突き詰めて突き詰めれば、核を成すテーマは同じになるかもしれない。
と、何の根拠もなく勝手に想像するのも今宵悪くない。
が、腐ってもブログ。読み手がいると無理してでも想定して書かねばならない(?)。

もとい、
――キミが今も昔も最も知りたいことがあるとすれば、それは何かね?――
と筆者が誰に問われたならば、はたしてどう答えよう。
知りたいことは幾らでもあるけれど、最も知りたいことヒトつ、という条件が付くなら難しい。

 ――何故、わたくし、いま、ここに、いるの?――

とりあえず、こう答えておこう......
ところで自分のことはどうでもいい。
いまこの時代に地球に住むすべての老若男女が、
「唯一最も知りたいことは?」という質問に真剣に答えたとしたら、
上位を占めるのは、
おそらくすべて“存在”にまつわるものだろう、
と勝手に想像する。

それで、何なの? だからどうしたっていうの? と切り返されたら途方にくれるが、長年に渡って後頭部から視床下部にかけての厄介なゾーンに寄生する、ある種のキチガイじみた好奇心と本能が、くだんの問いでもって、おのれの思考や自我をホワイトアウトの世界に放り込む。
一時的とはいえ、極度の疲労をもたらし、その度合いが年々ひどくなってきている。
万物の全てを知りたい、という人間独自の極めて本能に近い“欲望”は、そして、とどまることを知らない。

いま、私は、最も知っておくべきことからも、最も知りたいことからも、きっとはるか遠くを歩いている。

と、最後は強引に格好ツケておこう。


        takeshi traubet marumoto & 丸本武

posted by タケシ・トラバート at 02:55| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月02日

◇◇◇連載【カフェ・ベイルート】について◇◇◇

五回に分けてお届けした【カフェベイルート】。
お気づきの方もおられるかもしれませんが、これは昨年、A-worksというところから出版されている季刊誌『旅学』にて、掲載されたものに多少の加筆・訂正をしたものです。

「連載」と勝手に銘打ちましたが、実際は一気に読める程度の長さです。
途中から読まれた方の為に、最後に全編を載せてしまいます。

ベイルート・フィルム写真2.jpg


『カフェ・ベイルート』




かつて、ある特定の町や土地に長くとどまると、毎朝ちがうカフェで紅茶やコーヒーをすすり、毎晩ちがった食堂でメシを食っていたものだ。それは旅の醍醐味でもある。

しかし、ある頃から、同じ軽食堂や同じカフェ、同じ裏通り、同じ街角ばかりに固執するようになった。
 
歳や疲れのせいじゃない。
 
長い間、意識的に無視してきたある種の「癖」が、顕著になってきただけのことかもしれない。
何事に対しても、良くも悪くもどっぷり深入りしてしまうという至って厄介な性格を、コントロールすることが出来なくなってきたのだろうか……。

 今回の旅も、なにかと深入りし過ぎた。

「深入り」ってやつは、この弛んだ前頭葉に旅の途上で必要不可欠な自己喪失、ボケた魂に逆説的な潤いを与えるカタルシス云々……といったアリガタ迷惑なご褒美につながってゆく。その先には、まるで極めて限られた人間のみに与えられるかのような特権、通常どんな犠牲をはらってでも垣間見ることのできない「奇妙な世界」へのマスター・キーが存在し、いつの間にか、単なる旅人でも一介の異邦人でもないポジションに身を置いている自分を発見することになる。

故に、いや、だからこそいまだ旅の歓び、孤独、愉しさ、切なさについて、言葉をもって語るすべをもてないでいるのかもしれない。



ベイルートの下町の宿に滞在し始めて約二週間が過ぎようとした頃、ある謎のレバノン人に誘われ、人通りの少ない路地へ赴いた。
男は、まるで国家機密でも伝えるかのようにオドオドしながら小声で忠告する。
「レバノンでは誰も信用するな。君がパレスティナ難民キャンプへ行くのなら絶対パレスティナ人を信用するな。そして宿の人間も含め、レバノンに住むあらゆる人間を信用するな。信用しているフリだけするんだ。もちろん、このオレを含めて……。」

無言のまま男の声を聞いていたが、彼が別れ際に念を押すかのように「オレも含めて誰も信用するんじゃないんだぜ」と言ったあと、小生、心の中でこうつぶやく。

「俺は自分以外のすべてを信用してきたし、これからもそうしてゆく」



ここで、「ベイルート」「レバノン」と言われてもピンとこない読者の為に(いまどきそんな捨世な若者などいない、と一応思うが……)、おこがましくも簡単な略説インサート。

「ベイルート」。イスラエルの北に隣接する小国レバノンの首都。中東では珍しくイスラム教徒とキリスト教徒がピースフルに共存しているモダーンな自由貿易都市。というのは過去の話。その黄金期には二十世紀初頭のタンジールや上海と比較されるほど、異邦人が自由に商取引をし、ワケアリ者、お尋ね者、二重三重スパイ、武器や麻薬商人の隠れ場として栄え、又、億万長者はよってたかって豪奢な別荘や秘密の銀行口座を作り、一時は「中東のスイス」とまで詠われた地中海に面する美しき港町。しかし、レバノンで内戦が勃発してからは驚愕の速さでダンテの地獄絵むかってまっしぐら。
内戦といっても、ベトナムの如く大国チラつく代理戦争。内戦終結後は雨上がりの茸の如くニョキニョキ出現した新興テロ組織の温床となり、闘争絶えることなく現在に至る。
全世界に報道され、記憶に新しい首相暗殺事件。又、二〇〇六年の夏から秋にかけてイスラエル軍との激しい紛争は、遠く離れたニッポンという国のお茶の間にも、毎日のようにトップニュースとして現れ、新聞では「レバノン」「ベイルート」という地名が載らない日は一日たりともなかった。
そしてパレスティナ問題。誌面の都合上、ここで触れることは出来ないが、イスラエル建国(一九四八年)と同時に大量難民となったパレスティナ人の多くが最初に「一時的移住地」として目指した土地のひとつも、小国レバノン。十代二〇代の読者なら、両親に聞くのが一番早い。著者なんぞよりはるかに熱意こもった説明をしてくれることだろうから。

七〇年代初頭、日本中を震撼させた「日本赤軍」シゲノブ派が最後の砦として選んだベッカー高原が所在するのも、小国レバノン。
ついでながらベッカー高原といえば、世界中のヒッピーにとって最高品質のハッシシ生産地。

この国の特殊性について語ればキリがない。
ある家族の休日……。お昼にビーチで日光浴し、その三〇分後にはレバノン山脈でスキーを小一時間楽しみ、そよ風に揺れるオリーヴ畑でピクニックし、夕方には地中海で海水浴、夜には海辺の空き地でビールとバーベキュー。こんなことが出来るアラブ・イスラム諸国なんて他にどこにあるだろう?



今回のレバノンへの旅は筆者に対し、申し合わせたかのように初日から多くの無理難題を提示した。まるで、この国の素顔をみせてもよい人物であるか否かを試すかのように……。

首都ベイルート到着当日にはレバノンという国の独自性を守るために闘ってきた若くリベラルな政治家が何者かに暗殺された。街の大部分がハイ・セキュリーティー・ゾーンになり、次は誰が殺されるのか市民の多くが神経質になっていた。

もともと情勢不安定なご時勢に加え、二〇〇七年の秋頃から民主的選挙を邪魔する右寄り学生たちによる座り込み、各政党どうしによる平和的対話の拒絶、といった一筋縄ではゆかぬ障壁のため、幾度も延期されてきた大統領選挙。カタチだけの首相と大統領不在の異常事態……。

街のいたる所に装甲車と兵士が配置され、カメラを持つあらゆる人間に対し、職務質問と手荷物検査が徹底され、まるで軍のトップが国家元首のごとくワガモノ顔で国内のあらゆるシステムをコントロールしているかのような…、そんな冬だった。

外国人観光客といえば、そのほとんどが湾岸諸国からのビジネスも兼ねた裕福層。観光名所の多くは兵士や警備スタッフと地元の老人たちの憩いの場と化し、かなりファンキーな様相。そして皮肉なことに撮影が公に許可されていたのは、クリスチャンの多く住む中東らしからぬブティック街や、小洒落たバーが軒並みそろう西欧風の地区ばかり。しかし、どこもかしこもよく見れば生々しい銃弾の後だらけ。

が、小生、あいにく戦争写真家ではない。目論見はそれらとまったく違った地平にあった。
説明を求められると苦しいが、苦しい言い訳をあえて述べればこうなる。

他愛もない妄想さえ翌朝には現実になってしまう不条理なこの国で、どこまで自分が不確かで漠然とした存在になれるかという、曖昧でいささか不謹慎な試みだ。断片の寄せ集めのようだった過去の長い旅にいったん区切りをつけるかのように、そして、それをまるで他人の目から眺めるかのように再確認すること。それをあえて「世界の火薬庫」と呼ばれる土地でおこなってみること……。



「沈黙と銃声のベイルート」は過去のものとなり、二〇〇九年現在「銃口と惰性のベイルート」とでも銘打ちたくなるような不可思議な空気に町全体は支配され、腐敗した国連スタッフや互いに不信感をむき出しにしている住民たちのただなかを縫うような旅になってしまった。
が、どんな国を旅しても必ず遭遇する、どこか現世を超越したまなざしの無邪気な子供たち、死を待つのみの老賢者たちとの出会いは数知れず。
おまけに秘密警察や過激派集団にスパイされつづけ、旅そのものをカモフラージュするというイタチごっこにも似た古風な旅ができたことは明記しておきたい。

「旅」という言葉がモダーンに定義されてしまう以前の“必要に迫られた”旅(亡命的ニュアンスをともなう漂白)を無意識の内にしていたおのれは、はたして旅人であったのだろうか?

ベイルート・フィルム写真4.jpg


中東の小国レバノンはキリスト教徒各派、イスラム教徒各派を含め十八以上の宗派(教徒)が狭い土地に共存する、世界でも稀にみるソウルフル国家である。

幾多の戦争や内戦をくぐり抜け、幾度も破壊し尽くされながらもなお、ポジティブに変化しつづけている。

ベイルートはサラエボにはならなかった。

だぶんそれは気候のおかげだ
たぶんそれは地中海のおかげだ

たとえ空爆で町そのものがズタズタになろうとも、たとえ極端なインフレで経済がボロボロになろうとも、たとえ国家予算のほとんどが国防費にまわされ生活が苦しくなろうとも、常にこの国の人々は多くの旅人をこころよく迎え入れてきた。

古代から巡礼へ向かう旅人や、シルクロードの商人たちの多くはこの肥沃な土地に長くとどまり、英気を養い、知識や情報を交換し合い、豊かに実る果物や水揚げされたばかりの魚介類に舌鼓し、ふたたび始まる長く厳しい旅にそなえ心身に休息をあたえ、それぞれまた旅立っていった。そんな悠久の歴史が背景にある。

それがいつしか旅人を無償でもてなすスピリットとなり、一種の伝統となり、あまたの困難のなかでも失われることなく、今の今にいたるまで受け継がれているのだ(と、勝手に解釈するオレ)。



レバノンには他の紛争国と大きく隔てる特異な「何か」がある。それが一体なんなのか突き止めようとしたが、いまだ納得のゆく答えを出せないでいる。

かの地にはどんな目的で訪れようとも、一介の「旅人」あるいは「傍観者」にさせぬ何かがあるのだ。それについて解る範囲で、誤解をおそれず活字化すれば

“異邦人にたえず主観を強いる空気”とでもなるだろうか。

旅人であろうが何であろうが、土地に足を踏み入れた瞬間から訪問者を何らかのかたちでレバノンという国に関わる当事者にしてしまう何かがある。

決して事物を客観的に角膜に映し込んだり、記録したり、単なる記憶のひとコマにすることを許してくれないのだ。

レバノンに対して複雑な感情を抱いているとすれば、滞在中、一瞬たりともそこで起こっていることを客観的に把握し、消化することが出来なかったことに起因する。

人通りの少なくなったベイルートの下町をとぼとぼ歩いているときでさえ、カフェの窓際の席でゆっくり煙草をくゆらせているときでさえ、目の前で装甲車が急停止しカメラをぎ取られ職務質問のために連行されているときでさえ、夕暮れ時にビーチ沿いのカップルのシルエットを眺めているときでさえ、幾多の戦争で精神肉体共にズタズタになった男たちが収容されている施設のラウンジでカンフー映画を観ているときでさえ、主観以外の何物でもない純度100パーセントの「主観」、でしか事物を消化することが出来ないもどかしさ。まるで客観性という概念は、定義があまりに曖昧だった主観性なるものを強調するため、強引に捏造された中身のない造語か何かであるかのように……。



年月をかけて地球上をゆっくりと移動してゆくと、時折、国境や民族、言語、世界観にまつわる旅人本人の自意識が、極端に希釈されることがある。

それは、ある土地に足を踏み入れた瞬間に出現する「かれらは我と違う、我はかれらと違う」という感覚がスッと消える瞬間。

その時点でもう訪問者は訪問者でなくなり、異国という舞台の関係者となり、重要参考人となり、被写体そのものになる。

 そんな土地のひとつが、レバノンだった。



空爆や紛争等の傷跡がいまだ生々しく残る地区の街並みは、悲劇をスカッと通り越し、喜劇の様相を呈している。その傷跡は、一九四八年の第一次中東戦争と一九六七年の第三次中東戦争の時のものなのか。あるいは長きにわたったレバノン内戦や一九八二年のイスラエル軍侵略時の傷跡なのか。国軍とヒズボラの紛争、そして記憶に新しい二〇〇六年のイスラエル軍による大規模な空爆で崩壊した建物なのか、数え切れない爆弾テロの爪跡なのか……。地元住民でさえ判別が困難なものがあまりに多い。

ハチの巣にされた欧亜折半のドッシリ重厚な建物群が視界を占領した刹那、振り向けばドレスアップした紳士淑女たちで賑う小洒落たカフェやクラブがズラリ、とくる。

そんな極めつけにリアルで、折り紙つきにシュールな国。またすぐに俺はあそこへ舞い戻ってしまうんだろうな……。
                

追記:
小康状態が続いていたレバノンであるが、昨年5月初頭「一九九〇年の内戦終結以降、見られなかった規模」の戦闘がベイルート市街地他で勃発し、その映像は世界中に発信され、中近東だけでなく欧米諸国の視聴者をも震撼させた。

が、依然、中東情勢など対岸のシケモク、と関心すら抱かないニッポン国民にとって、それはテレビCMより重要ではなかったらしい。
そんな中、五月二五日、約半年間も実行されなかった大統領選により、「中立」を謳う新大統領が選出された。

しかし、中東だけでなく準紛争地域では「中立」という概念ほど危うく、そして無力なものはない。彼の地で「中立」という立場につくということは、同時に多くを敵にまわすと解釈されてしまうのだ。

今後の情勢を見守るしかない。


丸本武
タケシ・トラバート
posted by タケシ・トラバート at 15:29| Comment(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【 カフェ ベイルート 】連載(最終回)

国連による国境警備.jpg


年月をかけて地球上をゆっくりと移動してゆくと、時折、国境や民族、言語、世界観にまつわる旅人本人の自意識が、極端に希釈されることがある。

それは、ある土地に足を踏み入れた瞬間に出現する「かれらは我と違う、我はかれらと違う」という感覚がスッと消える瞬間。

その時点でもう訪問者は訪問者でなくなり、異国という舞台の関係者となり、重要参考人となり、被写体そのものになる。

そんな土地のひとつが、レバノンだった。



空爆や紛争等の傷跡がいまだ生々しく残る地区の街並みは、悲劇をスカッと通り越し、喜劇の様相を呈している。
その傷跡は、一九四八年の第一次中東戦争と一九六七年の第三次中東戦争の時のものなのか。
あるいは長きにわたったレバノン内戦や一九八二年のイスラエル軍侵略時の傷跡なのか。
国軍とヒズボラの紛争、そして記憶に新しい二〇〇六年のイスラエル軍による大規模な空爆で崩壊した建物なのか、数え切れない爆弾テロの爪跡なのか……。地元住民でさえ判別が困難なものがあまりに多い。

ハチの巣にされた欧亜折半のドッシリ重厚な建物群が視界を占領した刹那、振り向けばドレスアップした紳士淑女たちで賑う小洒落たカフェやクラブがズラリ、とくる。

そんな極めつけにリアルで、折り紙つきにシュールな国。またすぐに俺はあそこへ舞い戻ってしまうんだろうな……。
                



タケシ・トラバート&丸本武
posted by タケシ・トラバート at 06:01| Comment(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月01日

【 カフェ ベイルート 】連載(パート.4)

IMG_0006 (2).jpg


中東の小国レバノンはキリスト教徒各派、イスラム教徒各派を含め十八以上の宗派(教徒)が狭い土地に共存する、世界でも稀にみるソウルフル国家である。

幾多の戦争や内戦をくぐり抜け、幾度も破壊し尽くされながらもなお、ポジティブに変化しつづけている。

◇ベイルートはサラエボにはならなかった。

だぶんそれは気候のおかげだ
たぶんそれは地中海のおかげだ

たとえ空爆で町そのものがズタズタになろうとも、
たとえ極端なインフレで経済がボロボロになろうとも、
たとえ国家予算のほとんどが国防費にまわされ生活が苦しくなろうとも、
常にこの国の人々は多くの旅人をこころよく迎え入れてきた。

古代から巡礼へ向かう旅人や、シルクロードの商人たちの多くはこの肥沃な土地に長くとどまり、英気を養い、知識や情報を交換し合い、豊かに実る果物や水揚げされたばかりの魚介類に舌鼓し、ふたたび始まる長く厳しい旅にそなえ心身に休息をあたえ、それぞれまた旅立っていった。
そんな悠久の歴史が背景にある。

それがいつしか旅人を無償でもてなすスピリットとなり、一種の伝統となり、あまたの困難のなかでも失われることなく、今の今にいたるまで受け継がれているのだ(と、勝手に解釈するオレ)。



レバノンには他の紛争国と大きく隔てる特異な「何か」がある。
それが一体なんなのか突き止めようとしたが、いまだ納得のゆく答えを出せないでいる。

かの地にはどんな目的で訪れようとも、一介の「旅人」あるいは「傍観者」にさせぬ何かがあるのだ。
それについて解る範囲で、誤解をおそれず活字化すれば

“異邦人にたえず主観を強いる空気”とでもなるだろうか。

旅人であろうが何であろうが、土地に足を踏み入れた瞬間から訪問者を何らかのかたちでレバノンという国に関わる当事者にしてしまう何かがある。

決して事物を客観的に角膜に映し込んだり、記録したり、単なる記憶のひとコマにすることを許してくれないのだ。

レバノンに対して複雑な感情を抱いているとすれば、滞在中、一瞬たりともそこで起こっていることを客観的に把握し、消化することが出来なかったことに起因する。

人通りの少なくなったベイルートの下町をとぼとぼ歩いているときでさえ、カフェの窓際の席でゆっくり煙草をくゆらせているときでさえ、目の前で装甲車が急停止しカメラをぎ取られ職務質問のために連行されているときでさえ、夕暮れ時にビーチ沿いのカップルのシルエットを眺めているときでさえ、幾多の戦争で精神肉体共にズタズタになった男たちが収容されている施設のラウンジでカンフー映画を観ているときでさえ、主観以外の何物でもない純度100パーセントの「主観」、でしか事物を消化することが出来ないもどかしさ。

まるで客観性という概念は、定義があまりに曖昧だった主観性なるものを強調するため、強引に捏造された中身のない造語か何かであるかのように……。


つづく

タケシ・トラバート&丸本武
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2009年09月28日

【 カフェ ベイルート 】連載(パート3)



今回のレバノンへの旅は筆者に対し、申し合わせたかのように初日から多くの無理難題を提示した。

まるで、この国の素顔をみせてもよい人物であるか否かを試すかのように……。

首都ベイルート到着当日にはレバノンという国の独自性を守るために闘ってきた若くリベラルな政治家が何者かに暗殺された。

街の大部分がハイ・セキュリーティー・ゾーンになり、次は誰が殺されるのか市民の多くが神経質になっていた。

もともと情勢不安定なご時勢に加え、二〇〇七年の秋頃から民主的選挙を邪魔する右寄り学生たちによる座り込み、各政党どうしによる平和的対話の拒絶、といった一筋縄ではゆかぬ障壁のため、幾度も延期されてきた大統領選挙。
カタチだけの首相と大統領不在の異常事態……。

街のいたる所に装甲車と兵士が配置され、カメラを持つあらゆる人間に対し、職務質問と手荷物検査が徹底され、まるで軍のトップが国家元首のごとくワガモノ顔で国内のあらゆるシステムをコントロールしているかのような…、そんな冬だった。

外国人観光客といえば、そのほとんどが湾岸諸国からのビジネスも兼ねた裕福層。
観光名所の多くは兵士や警備スタッフと地元の老人たちの憩いの場と化し、かなりファンキーな様相。
そして皮肉なことに撮影が公に許可されていたのは、クリスチャンの多く住む中東らしからぬブティック街や、小洒落たバーが軒並みそろう西欧風の地区ばかり。

しかし、どこもかしこもよく見れば生々しい銃弾の後だらけ。

が、小生、あいにく戦争写真家ではない。
目論見はそれらとまったく違った地平にあった。

説明を求められると苦しいが、苦しい言い訳をあえて述べればこうなる。

◇他愛もない妄想さえ翌朝には現実になってしまう不条理なこの国で、どこまで自分が不確かで漠然とした存在になれるかという、曖昧でいささか不謹慎な試みだ。

◇断片の寄せ集めのようだった過去の長い旅にいったん区切りをつけるかのように、そして、それをまるで他人の目から眺めるかのように再確認すること。

◇それをあえて「世界の火薬庫」と呼ばれる土地でおこなってみること……。



「沈黙と銃声のベイルート」は過去のものとなり、
二〇〇九年現在「銃口と惰性のベイルート」とでも銘打ちたくなるような不可思議な空気に町全体は支配され、腐敗した国連スタッフや互いに不信感をむき出しにしている住民たちのただなかを縫うような旅になってしまった。

が、どんな国を旅しても必ず遭遇する、どこか現世を超越したまなざしの無邪気な子供たち、死を待つのみの老賢者たちとの出会いは数知れず。

おまけに秘密警察や過激派集団にスパイされつづけ、旅そのものをカモフラージュするというイタチごっこにも似た古風な旅ができたことは明記しておきたい。

「旅」という言葉がモダーンに定義されてしまう以前の
“必要に迫られた”旅(亡命的ニュアンスをともなう漂白)を無意識の内にしていたおのれは、はたして旅人であったのだろうか?


つづく

タケシ・トラバート & 丸本武
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【カフェ ベイルート】連載(パート.2)


 
ベイルートの下町の宿に滞在し始めて約二週間が過ぎようとした頃、ある謎のレバノン人に誘われ、人通りの少ない路地へ赴いた。

男は、まるで国家機密でも伝えるかのようにオドオドしながら小声で忠告する。

「レバノンでは誰も信用するな。君がパレスティナ難民キャンプへ行くのなら絶対パレスティナ人を信用するな。そして宿の人間も含め、レバノンに住むあらゆる人間を信用するな。信用しているフリだけするんだ。もちろん、このオレを含めて……。」

無言のまま男の声を聞いていたが、彼が別れ際に念を押すかのように「オレも含めて誰も信用するんじゃないんだぜ」と言ったあと、小生、心の中でこうつぶやく。

「俺は自分(・・)以外(・・)のすべてを信用してきたし、これからもそうしてゆく」



ここで、「ベイルート」「レバノン」と言われてもピンとこない読者の為に(いまどきそんな捨世な若者などいない、と一応思うが……)、おこがましくも簡単な略説インサート。

「ベイルート」
イスラエルの北に隣接する小国レバノンの首都。中東では珍しくイスラム教徒とキリスト教徒がピースフルに共存しているモダーンな自由貿易都市。というのは過去の話。

その黄金期には二十世紀初頭のタンジールや上海と比較されるほど、異邦人が自由に商取引をし、ワケアリ者、お尋ね者、二重三重スパイ、武器や麻薬商人の隠れ場として栄え、又、億万長者はよってたかって豪奢な別荘や秘密の銀行口座を作り、一時は「中東のスイス」とまで詠われた地中海に面する美しき港町。

しかし、レバノンで内戦が勃発してからは驚愕の速さでダンテの地獄絵むかってまっしぐら。
内戦といっても、ベトナムの如く大国チラつく代理戦争。
内戦終結後は雨上がりの茸の如くニョキニョキ出現した新興テロ組織の温床となり、闘争絶えることなく現在に至る。
全世界に報道され、記憶に新しい首相暗殺事件。又、二〇〇六年の夏から秋にかけてイスラエル軍との激しい紛争は、遠く離れたニッポンという国のお茶の間にも、毎日のようにトップニュースとして現れ、新聞では「レバノン」「ベイルート」という地名が載らない日は一日たりともなかった。

そしてパレスティナ問題。誌面の都合上、ここで触れることは出来ないが、イスラエル建国(一九四八年)と同時に大量難民となったパレスティナ人の多くが最初に「一時的移住地」として目指した土地のひとつも、小国レバノン。十代二〇代の読者なら、両親に聞くのが一番早い。著者なんぞよりはるかに熱意こもった説明をしてくれることだろうから。

七〇年代初頭、日本中を震撼させた「日本赤軍」シゲノブ派が最後の砦として選んだベッカー高原が所在するのも、小国レバノン。

ついでながらベッカー高原といえば、世界中のヒッピーにとって最高品質のハッシシ生産地。

この国の特殊性について語ればキリがない。

ある家族の休日……。
お昼にビーチで日光浴し、その三〇分後にはレバノン山脈でスキーを小一時間楽しみ、そよ風に揺れるオリーヴ畑でピクニックし、夕方には地中海で海水浴、夜には海辺の空き地でビールとバーベキュー。

こんなことが出来るアラブ・イスラム諸国なんて他にどこにあるだろう?


つづく

タケシ・トラバート & 丸本武
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2009年09月27日

【カフェ ベイルート】連載(パート1)

『カフェ・ベイルート』


 
かつて、ある特定の町や土地に長くとどまると、毎朝ちがうカフェで紅茶やコーヒーをすすり、毎晩ちがった食堂でメシを食っていたものだ。

それは旅の醍醐味でもある。

しかし、ある頃から、同じ軽食堂や同じカフェ、同じ裏通り、同じ街角ばかりに固執するようになった。
 
歳や疲れのせいじゃない。
 
長い間、意識的に無視してきたある種の「癖」が、顕著になってきただけのことかもしれない。

何事に対しても、良くも悪くもどっぷり深入りしてしまうという至って厄介な性格を、コントロールすることが出来なくなってきたのだろうか……。

 今回の旅も、なにかと深入りし過ぎた。

「深入り」ってやつは、この弛んだ前頭葉に旅の途上で必要不可欠な自己喪失、ボケた魂に逆説的な潤いを与えるカタルシス云々……といったアリガタ迷惑なご褒美につながってゆく。
その先には、まるで極めて限られた人間のみに与えられるかのような特権、通常どんな犠牲をはらってでも垣間見ることのできない「奇妙な世界」へのマスター・キーが存在し、いつの間にか、単なる旅人でも一介の異邦人でもないポジションに身を置いている自分を発見することになる。

故に、いや、だからこそいまだ旅の歓び、孤独、愉しさ、切なさについて、言葉をもって語るすべをもてないでいるのかもしれない。


つづく

タケシ・トラバート & 丸本武
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2009年09月23日

■消えた小説■

何年も前に中東のとある街で書いた短編小説がある。
書き上げた後、原稿そのものがどこかへ消滅してしまった。
「小説」といっても、実際の話を「小説風」にアレンジしたものだった。
「読みやすい」という、それだけの理由から……

しかし、先日、消滅したはずのその「小説」。書き出し部分だけが出てきた。
出だしだけが、どうゆうわけかノートに書かれていたわけだ。

『気狂いジャーナリスト』

DSC01257 (2).jpg

それはそれでよかったことにしよう。
なぜって、誰も傷つけずに後にできたのだから。
だから、時が死に絶えるまで眠っていよう。

こんな置き手紙を残してあいつはどこかへ消えてしまった。

冬が間近に迫りつつあるエルサレムのとある昼下がりだった。
俺たちはジャーナリストどもが常宿するホテルの最上階の、救いようがないほど散らかった部屋で、つい先週までブッ壊れたエアコンに悪態つきながら汗だくになって仕事をしていた。

階下では色んな国から来たチンピラ記者たちが情報交換に躍起になっていたが、俺たちはそんなネタのたらい回し社交界には縁が無かった。

連中ときたらトランプで次の日の取材クリューを決めてたんだ。運悪くジョーカーを引いちまった国のテレビ局か新聞社か通信社が一番危険な地域へ取材に行って来て、その日の夜にみんなで仲良く山分けって按配。
幾つものバリエーションをあっと言う間に作り上げる脚本家がハリウッドからわざわざ来ていたのにはさすがに驚いたものだった。

でも、そんな現状にもすぐに慣れ、俺たちふたりは結果的には孤立せざるを得なかったが、こちらのペースとスタイルで自由に仕事をすることができた。
デカイ機材や衛星通信用のアンテナを他のグループから借りる必要もなかったし、第一、使い方さえ良く分からなかった。

ふたりに必要なものは「ひとつ」を抜かせば揃っていた。

昔ながらのテープレコーダーと一眼レフが2台、たまに使う16ミリのビデオカメラが一台にタイプライター2台。
俺はもっぱら壊れてないほうのタイプライターとテレコしか使わなかった。画像関係は相棒の仕事だったからだ。紛争取材では当たり前の組み合わせだけれど、あいにく俺たちは紛争を取材しに来たわけではなかった。

足りなかった必要なもののひとつは、お互いの信頼関係だけだった。

あいつは俺をどこまでも疑ってかかってたし、俺は俺であいつのやることすべてが気に食わなかった。
それでも何年もの間、それが仕事自体に支障をきたさなかったのには訳がある。
あいつは俺に借りがあった。そして俺もあいつに金では換えられない借りがあった。
もちろん女がらみだ。だが、それについては後述する。
(以下、消失)

タケシ・トラバート & 丸本武
ラベル:小説
posted by タケシ・トラバート at 06:25| Comment(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月19日

■■■地の果ての街灯■■■

その日の朝も、いつものように悪夢にうなされ目を覚ました。
今朝のことだ。

目覚めの悪さときたら私は誰にも負けないだろう。夢という仮面をかぶった暗闇といつまでも付き合うくらいなら、多少眠くとも現実という悪夢と対峙し続けていたほうがまだマシなのだ。

こんなふうになってしまったのには訳があるに決まっているのだが、いまだ私はそれを追求すること自体に恐れを抱いている。

ようやく任務が終わり、激戦地から五体満足に帰還してきた兵士が、冷や汗だらだらの白昼夢に四六時中襲われて気が変になるのと共通項が多い。
私の記者仲間にも、戦場取材から帰国する度に虚脱感と不眠症に悩まされている者がいるが、私は戦場ジャーナリストでも帰還兵でもない。

ただ、この人生の大部分を深く濃厚な旅に費やしてしまったことは明記しなければならないだろう。ヘビーなドラッグで身も心もズタズタにしてしまった数年間のことも記さなければならないだろう。

もちろん性格の問題もある。苛立ちの多いこの人生に必要不可欠な息抜き……適度で効果的な息抜きの方法……を知らなかった。というより、知って実行に移しても、いつもそれらを最後には逆効果にしてしまう、理不尽でひねくれた性格が根っこにある。

そもそも私は適度という概念をよく知らない。良くも悪くもそれがこの人生をグシャグシャにしているのだが、いまのところ改善するつもりも余裕もないでいる。

そんな暇があるんならヨガでもやってたほうが身のためだが、心身ともに健全になってしまうと変ちくりんな世界に顔出すのが億劫になってしまうから止めとこう。

なんてったって世界のあちらこちらに点在する奇妙な社会に頻繁に出入りできなくなると、私の場合、生活そのものが成り立たなくなってしまうし、それ以前に人生の何もかもが退屈になってきて昼間っからあくびの連発間違いなしって塩梅なのだ。

タケシ・トラバート & 丸本武
posted by タケシ・トラバート at 03:50| Comment(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月16日

■■■エチオピアを探しに・・・■■■

世界でもっともやっかいな国のひとつだ。

エチオピア……

歴史上、多くの文化や政治にべらぼうな影響を与えつつも、日本では単純に「飢え」の代名詞で片付けられてしまう。

「エチオピア」という国ほど、その国名のみが勝手にひとり歩きし、他国によって都合のいいように使われてきた国はないだろう。

それは今にはじまったことじゃない。

アメリカにおける黒人解放運動、またはジャマイカにおけるラスタ・ムーブメント華やかしき頃にはアフリカそのものの象徴として過剰に神聖視され、また80年代中葉、東アフリカ各地を旋風した大飢餓では隣国のスーダンでもケニアでもなく、「エチオピア」という国名が飢餓難民救済イベントのシンボルとして多用された。
かと思えば先進諸国が好景気に浮かれはじめると、にわかにミステリアスな響きを伴って、財宝眠る謎の大地として世界のメディアがこぞって押しかけ、世界遺産ブーム到来時には、豊かな自然と、それまで見向きもされなかった多くの古代遺跡に土足で入り込み、ブームが去ればエイズやマラリアのはびこる「救いようのない国」として黙殺されるという憂き目を見、どの時代においてもひたすら大国による中途半端な関心に振り回されてきた国だ。

過去に何度かこの地を訪れている筆者は、この地を踏む度に「エチオピア」という国が分からなくなってゆくような気がしてならない。
そんな国は他にもたくさんあるのだが、エチオピアの場合は勝手が全く違う。

北アフリカのバザールの持つ独特な喧噪もなければ、西アフリカや南部アフリカのような大地のリズムがどこからともなく聞こえてくるというわけでもない。

もとい、エチオピアという国は多民族国家だ。知っての通り貧富の差だってはげしい。そしてアフリカでも際立って多彩なカルチャーと大自然と複雑怪奇な歴史を有する土地である。肌の色だってそのグラデーションには目を見張るものがある。
今は亡きアフリカのラストエンペラーことハイレ・セラシエ皇帝は、聖書に登場するダビデ王やキリスト直系の子孫と云われていたりもする。

エチオピア人の多彩ぶりと多才ぶりはあらゆる分野で発揮されるが、意外なことにどの民族・部族も日本人よりシャイで慎ましやかな生活を送っている。
語弊はあるが、マラソンで活躍する選手の多くは黒人系のオロモ族であるし、文学やアートの世界で欧米諸国顔負けのセンスを発揮するクリエーターのほとんどはティグリ族から出ている。また、アマハリ族からは世界中のセレブを魅了する美男美女がズラリとくる。

でも、僕らはかられがどれだけデリケートで誇り高い民なのかを知る機会にいまだ恵まれてはいない


タケシ・トラバート & 丸本武
posted by タケシ・トラバート at 21:55| Comment(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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