2013年04月10日

「ガーデンレタスの種を蒔きながら」を通読して



生のおもたさを、おどろくほど格調高い文体で芸術表現の域にまで昇華させることに成功した、まれにみる文芸作品である。

すべてのセンテンス、単語の用い方、なにをとっても一切の妥協はみられない。そこにあるのは著者の「コトバ」に対する真摯な姿勢であり、愛情であり、やさしさ、であるのだろう。


ここのところ読書といったら、友人たちに薦められた翻訳本を食いちらかしてばかりで、日本語で書かれた良書を見逃してばかりいた。そんななか、この「ガーデンレタスの種を蒔きながら」という、まさに読むべくして出逢ったかのような書物は、あらためて日本語の美しさ、かろやかさ、力強さ、すがすがしさを感じさせるものだった。

まず読み進む前に読者にあたえられるインフォメーションは――伴侶との二度にわたる死別――という「ヘビーな内容」だ。

一歩まちがえれば、ちまたになくもない陰鬱な「白書」となってしまう題材を、そこは編集畑という著者、ものの見事に自己啓発し、知的読み物という衣をまとい読者をびっくりさせてしまう。

また人生そのものを、季節や自然のうつりかわりに例える箇所が多いのだが、そのどれもがまったくもって「自然」なのである。

たとえば愛について、こんなくだりがある、

『ときには自分の信じる愛によって、夢を打ち砕かれることだってある。丹精をこめて育てたやさしいバラの花の棘に、手首を傷つけられるように。愛にも、季節が存在し、あまりにも愛がやさしくて、打ちひしがれる日だってあるのだ。』


一冊の本であるのにかかわらず、いく編もの愛おしい短編を読んでいるかのような錯覚におちいるのは、はたして著者である伊沢ミーシャ氏のねらいなのかそうでないのか、知るよしもないけれど、読み終えても書棚に長く置いておきたい一冊であることに変わりはない。


(書籍Info)↓
http://www.michitani.com/books/ISBN978-4-89642-401-0.html

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2013年03月30日

精神病棟から叶わぬ愛を込めて


こんなはずではなかった。

というのが、まず初めにやって来たため息。


こんなはずであろうがなかろうが、あたりを見渡せばそこは再起不可能とおぼしき患者たちの吹き溜まり。

過食症で押せばコロコロとどこまでも転がっていきそうなまあるい人たち。

拒食症で吹けば三途の河までヒラヒラ飛んでゆきそうな骨と皮の人たち。

見かけは普通でも目には見えない妖精相手にケンカばかりしている老婆たち。

ただただ途方に暮れているぼくのような煩悩たち。


とにかく参ったものである。何がどうこうして参っているのか、それが分からないから参っているのだ。

とにもかくにも、いままで「うつ」という言葉を安易に使ってきたおのれが憎らしかった。

本当にうつ病にかかってしまうと、当事者はもうある種の「死」とつねにとなり合わせ、どころか、つねに死ぬことしか頭にない。

ここまで症状が悪化してしまうと通常では理解できないような負の願望が次から次へとたたみかけてくる。

とりわけ朝、めざめたとき、天井を眺めながら、どうしてもっと早くにあの世にチェックインしなかったのだろうと、うらめしく思えてきてしまう。

そこで患者たちはふらちな思いだけでなく生への活力さえもを曖昧にしてしまう抗うつ薬や抗不安薬といったおくすりを決まった時間に投与されることになる。拒否することは許されず、その場で必ず服用しなければならない。
それは医師や看護師の責任問題に関わる重要事項である。

患者の中には、理性がはたらかぬと言って拒絶する者もいるのだが、そのために死への欲求が増幅され、人間が考えつくありとあらゆる手段で命を絶とうとしてしまうからだ。


どうしょうもない世界なのだ。

そんな、どうしょうもない世界から心身ともに回復し退院できたとしても、中にはこれまた精神医療の限界か数日もしない内に舞い戻ってきてしまう患者も多いのである。

どうしょうもない世界から身の安全を求めて入院したのはいいけれど、これまたどうしょうもない世界がそこでは繰りひろげられているのである。困ってしまう。

慣れれば多少は過ごしやすくなるかと思いきや、そうは問屋も八百屋も卸してくれへん。

程度の差こそあれ心を患っている男たち女たちとの共同生活、ひとりが回復しても必ず足を引っぱるやからがいるから安心できない。かなりのストレスである。

そもそもうつ病を根源的に治すことなど今の医療では無理なハナシなのだ。





文責:丸本武
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2013年01月03日

イントロでアクション





 

この、どうしょうもないほど「日常的」な一日、あっという間に、たぶん夕刻

こんな日がせめて幾日かはつづくようなことがあってほしいものだと、ふといま思う。それほど「日常」というものが筆者の「日常」には完全に欠落してます。
お正月〜といわれてもピンとこないが、何もかもに、だらけ、怠惰のダの字までいっても罪悪感など湧かぬ数少ない休日……


そんな中、ここ数年、最初の女房と10年以上のブランクはあったものの、定期的に連絡を取り合っているのだが、アラサーで三人目になる子供がお腹のなかに、と告げられる(もちろん再婚相手との子供)。

血が混ざると生命への激しい謳歌も衰えること知らず。
長男の名はケヴィン。今年で18才・・・・・・

大天使の名前を拝借したものだ。
命名は母親(離婚後しばらくしてから知った妊娠だったため)。

そのイタリア人とルーマニア人の血が入る母と日本人の血も半分流れている青年ケヴィン。
まだハタチにはなってないけど、今年、私が初めて自分の生まれた土地をはるか離れ、長い異国の大地をさまよった歳と同じ齢を迎える。


おのれのせがれにどんな道を歩んでもらいたいか、と真剣に考えたことのある方なら分かるかも知れない、このもどかしい感覚。
わからないのだ。
実にわからないのです。

自分と同じようなふざけた道を歩もうが、つつましく「田園」風景にうもれながら牧歌的な農夫になってくれてもいい(ヴェートベンの名作『田園』は、かつてハイリゲンシュタットと云われた地方、息子の現住所から車で小一時間)。といっても現在のドイツ、EUの中では悪くないのに、東へ行けばゆくほど経済は極端に悪化中。

高等教育を受けていても、そうそう自分がやりたい仕事に就けるものではないらしい。
で、じゃあケヴィン、お前は?

 なんと音楽プロデューサーのアシスタント

即興のMCなんかもうまい。
音楽の才能はかねてから認めていたけれど、絵の才能がどうもまだ目が出ない。
いや、もともと絵の才能などなく、親バカ高じて幻覚でも見たのだろう、きっと。





丸本武

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2012年12月19日

「終末論とDNA」

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ひとが「世界の終り」や「人類の滅亡」などといったカタストロフな予言を愛する理由


まず、大前提がある。

【人間という生き物は、いつか必ず自分にも死が訪れる、という「希望」があるからこそ「生きて」いられる】

これこそが、
「死」そのものが、

ひとが ひととして生きてゆく上でのエネルギーであることはもはや疑う余地などない。


もし、人間から「死」や「終り」といった概念を取り上げてしまったりしたら、その瞬間から人間は生きてゆく活力を失い始める。

いつかこの「生」にも終焉がある、という意識が人間を生かしてるだけであって、もし宇宙にも生にも「終り」などなく、永遠に続いてゆくなんてことになってしまったら、人間はひとり残らず発狂してしまうだろう。

何ごとにも「終り」が来るのを知っているから安心していられる。

または、この苦痛と苦悩どもが絶えることのない世界。そこで生きてゆくには「死」というピリオドが、そう遠くない「明日」にでもやってくる、という「希望」がなければやはり発狂してしまうだろう。
どうゆう訳か、ひとは「死」を遅くしたり早めたりできる数少ない生物(ヒト科生物以外で有名な生物としてレミングがいる)に分類される。


ところで
これを書いているのが2012年12月19日。
「滅亡の日」まで70時間をきっている。


何年も前にハリウッドでは莫大な制作費を掛け、その名も「2012」という映画まで作られ、本当に信じている方々の数、日本との温度差、はるかにケタ違い。

既に断食をはじめているひとや、家や土地を全て売ってしまった方、集団自殺を計画しているグループ……

ここ日本でも数年前は「マヤ暦」「2012年人類滅亡」といったキーワードが書籍や新聞雑誌類で見掛けぬ日はない! ほどだった。
テレビもこぞって面白おかしく取り上げて、空前のブームにもなったが、

 「その日」が近くなるにつれ、
一般市民・視聴者の関心度は反比例。

あれほど騒がれた「2012年人類滅亡」の数日前だというのに、テレビも雑誌も知らん顔。
誰ひとりとして慌てたり恐怖に押しつぶされてるよーな人間は、この界隈(どこ?)ひとりもなし。

 

北米や南欧の国々にくらべると、日本人はとてもとても醒めている。

そもそも2012年12月21日が「終焉の日」であることさえ知らないかのように。どこを調べても誰に訊いても答えは
「そういえば、あったねそんなヨゲン(笑)」
「そこまで正確に分かるなら地震予知なんて朝飯前ネ!」等々。

すぐにハナシをそらすのである。

エンターテイメントとしての「予言・予知」は大いに歓迎するが、マジなのは勘弁して、疲れるから(笑)…… ということだろうか。



個人的な意見だが、「終りの日」はべつに2012年12月21日でなくともよい。

来年でもよいし、あさってでもいい。

ただ、数年以内に「創世記」にも記されているような大洪水で地表は四十日四十夜、水で満たされ、(地球上で最も害のある生き物)人類のいない美しい天体として生まれ変わるだろう。


  私はただ、その美しさを想像したい。





最後に念を押してしまうが、筆者は大真面目に「人類はもって10年、もしくは数年内」と思っている。






   文責:丸本武

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2012年12月09日

霊長類ヒト科 生物


raneem BirthdayCard2012.JPG

ここのところ「終電逃し」ばかりの小生。週末でもないのに……ひとりディスコ(クラブでは決してない)で踊り明かして来たかのよう……
まぶしい東陽に目を細め、着古した黒いジャケットの襟をムリヤリなおし、
通勤者とすれ違ってゆく道ゆき……

朝一番のガラガラ電車と酔っぱらいが織りなす早々朝の光景に溶け込む、おのれ……

帰宅しても仕事があるのでバッタリ眠るワケにもゆかず、半時間ごとにブラックのコーヒーを淹れ、喫煙度数はもはやヘビーやチェーンを超え、眼の充血度はマリワナ常用者レベルで、その日の仕事に取り掛かるのだけれど、
どんなに頑張ろうと、既に慢性化してしまった疲労と寝不足のおかげで集中力も忍耐力も想像力も使い古されたモップのよう
。いや、モップそのもの。

そんな状態でまともに仕事などできやしないのに、それでも仕事らしきものをしなければ明日が無いフリーランサーというカルマ……
(世界ひろしと言えども、こんなカルマが存在するのは「日本国」を置いて他にない !? 笑 )

今日こそは終電に間に合ってぐっすり眠ってやる、と決め込んでも、おそらくまた終電に間に合わず、始発電車を待ちながら野良犬のように真夜中の大都会をとぼとぼ歩くのだろうか……(「ならばアクセスゴキゲンな場所に住め!」)。

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 と、


そんな個人的な生態観察はよしとして、昨夜は仮眠を少しでもとろうと、数年ぶりにインターネットカフェなる不可思議な施設で約3時間過ごしたのだが、世に言う “ネットカフェ難民” はどこにもいないのである。

念のためにと何件も回って聞き込みをしてみたのだが、どのインターネットカフェの店員さんに聞いても返事は決まって
 「ウチにはいませんね〜」

もうネットカフェ難民など古いのだろうか? 

それともインターネットカフェという施設に支払う僅かな金銭も払えなくなり、さらに安く過ごせる「施設」に、元ネットカフェ難民は移行していったのだろうか?

「かれら」(ここでの「かれら」とは便宜的に年収50万円以下の「健常者」を指す)は、
この「世界」の、恒常化した どん底街道 まっしぐら 経済状況の中、いま、どのような生活をしているのだろう?

と、疑問符をあえて付けてみたが、実は答えを知っている。

しかし、底辺で生きている人々の生活状態を報告する場ではないので、省略。

roof-top

 
問題は、「3.11」から数年、もしくは十数年後の若者たちは “アジア” に生きている、という実感を抱きながら、汚染されたこの列島で破綻した日本経済を尻目に、まるで不可触民であるかのような生活を、巨大なスラム街と化したTokyoというコンセプトの中で、送らなければならないのではないか?

と、そんな妄想が一瞬よぎった。

これが単なる妄想で済めばよいのだが、

自然界の長(おさ)は想像以上に手厳しい。


誤解を恐れず書いてしまえば……

われわれヒト科の霊長類が他の生物や自然界、そしてこの地球やこの太陽系に支払うべく莫大なツケは、「無数のいのち」でコト足りるものではないだろう。

そしてそう遠くないある朝、
自然界の長がホモサピエンスという生物を裁くとき、

裁かれる側であるわれわれは、どう裁かれたのか知らぬまま、地球から姿を消していることだろう。


そして再び己に問うてみる

霊長類ヒト科という種族ひとつがこの地球上から姿を消すことと、

海棲哺乳類ジュゴン科という種族ひとつがこの地球上から姿を消すこと、

そのどちらが深刻な問題なのだろうか……と。

そのどちらが地球にとって “一大事” なのだろうか……と。


べつにペシミスティックな問いではない。比較自体がナンセンス。
あえて付け加えるならば、

  「なにごとにも順序や順番がある」


そう思わずにはいられない。




                          
文責:丸本武
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2011年12月26日

 女よ



女よ (685x1024).jpg



たまには個人的なことを、少しだけほざいてみようと思うけれど、許して下され

*恋に破れた男が自分に言い聞かせる幾つかのセンテンス。
(自暴自棄になる前に、かるく一服して胸の内でヘタなお経のように)

そして、以下の如く、負け犬の遠吠えだかハッタリだか忌々しいヘリクツでおのれを、誤魔化す。

■現実逃避とは、現実から逃げたところにあるもうひとつの現実

と、肩凝るようなひとりごとではじめ、

■現実から逃避した先に待ち構えている現実のほうが、より厄介なんだよ

だとかツッパってみせ、

■現実逃避とは、リアリティーから逃げ、逃げた先にある、もうひとつのリアリティーと、ひとりぼっちで対峙しなければならない、極めて勇気のいる行為である

などとうそぶき、強がってみせ、


■極めて危険な「現実逃避」と、軽く明るい「現実逃避」の、その分量・分配・配分・ブレンド・etc.に、各自、真価が問われる時代が、またやってきた

と、しまいには開き直って訳の分からぬ能書きをタレ、

まるで他人様のことのように焦点をボカす……


これからしばらく未練と嫉妬に悶え苦しむことになるのは目に見えていて、

これからしばらく巨大な喪失感にうなされるのも分かっていて、
これからしばらく女性不信に襲われたらどうしようかと余計な心配までして、
女々しくも自己憐憫に甘んずる……

この、わざわざの、師走

愛しいひとの子宮に、いつの間にかどこかの野郎が新たな命をそそぎ、いつの間にかに結婚までしてたなんて!
と、おのれを憐れむ気力も精力もない今宵
......

下戸なおのれは酒に溺れることも出来ず、法に触れるゆえドラッグに溺れることも許されず......

■素晴しい芸術作品は、このようなときに生まれる

と書き、鏡の中の阿呆ヅラした自分を、ハゲます。


幾度味わっても慣れることなどないどころか、回を重ねるごとに、立ち直りが遅くなる「男」という情けない生物、

この部屋に

一匹いる




 



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2011年09月12日

(仮)イベント報告


先日、9月9日、東京のステキな画廊「タンバリン・ギャラリー」にて開催されたポエトリー・イベント、

【POETRY COCKTAIL 2011】
大盛況のもと、終了いたしました。

当日、会場へ駆けつけて下さった多くのピースニクたちに感謝します。
ボランティアをかって出てくれた方々、画廊スタッフの皆様、出演者たち・・・
そして、もちろん、仕事などの都合で参加できなかった方々からの激励にも感謝!!

(多くの方々から「次回はいつですか?」との嬉しい声も多く、年内にまたできるよう、今度はボランティア・スタッフ募集し、さらに大きな「流れ」をつくろうと、希望〜)

詳細は次の更新時に書かせて頂こうと思います。

Reina Bluemoon[Poetry Cocktail 2011]-2.JPG


 Poetry Cocktail を代表して、お礼まで。


                                                                  丸本武&Takeshi Traubert
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2011年06月01日

ブログ再開、もう少しお待ちを!!

毎回このサイトをCHECKして下さってる方、ここのところなかなか時間が取れず、怠っています。
これから20時間以内にひさしぶりにブログアップいたしますので、それまでの間、少々お待ち下さい。

マーク・リーボウのライヴちらし (1024x685).jpg


この8月に10年ぶりの来日公演を行う「マーク・リーボウと偽キューバ人たち」
今日(6月1日)チケット先行発売です。

今日は若き日のマーク・リーボウのクールなソロを、ぜひ御覧頂いて、痺れてください★

Marc Ribot - Dark Was The Night (Cold Was The Ground)






Takeshi traubert marumoto
丸本武
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2011年05月18日

◇ つつましやかに生き、ど派手に遊び、重たく夢みる ◇

 そしてこれでもか、と人生はつづく。

永田町に花 (1024x685).jpg 




 









昨夜、電話があった。

いままで会ったことも話したこともない方からの突然の電話だ。

発信源は石巻市から少し内陸に入ったところにある、とても小さな町。

たまたまその時、私は〆切に追われ55時間ほど昼夜ぶっ通しでタイプライターと格闘した後で、小一時間ほど横になり後睡をむさぼっていた。
起きなければ、起きなければ、と思いながらも枕に顔をうずめ、ひとりだだをこねていた時だった。

受話器から聞こえてきたのは、か細くも芯のある初老の男性の声。
彼はまず突然の電話を詫びた後、名を名乗った。
しばらく朦朧とした頭で私はその聞き覚えのない名前と声が、なぜかとても耳に心地よく、目をつぶって横になったままでいた。

ふとその男性が私に電話を掛けてきた理由を口にし、彼がここ数日間の近況を話し始めるに及んで、私は目が覚め、飛び起きると、そのたどたどしくも優しい口調の持ち主が誰なのかがわかった。

      ◆

数週間前、私は「小型発電機&携帯用手回し発電式ライトを被災地へ」なるプロジェクトをひとりで勝手に始め、数日前に資金難のためから打ち切っていた。

「プロジェクト」といっても、それほど大それたものじゃない。

単に個人的に知る輸入卸売業者から、数回に分け数十個単位で、小さなハンドルの付いた手動発電機内臓の小型ライトやラジオを仕入れ、
サンプルをまず被災地で信用にあたいするボランティア団体に託し、
サイズ・重たさ・形によりそれぞれどのような場面で必要性が高いのかをリサーチしてもらい、
そのデータを元に次から次へと卸業者へ発注し、段ボールに入れて送り続ける、
というだけのものだった。

輸送した後は、信頼できる(被災地で活動する)グループに、どのような優先順位でどのように配るのかの判断は任せた。

私が東京でやるべきことはただ、被災地ではない土地に住む過剰反応バイヤーが買い占めてしまう前に、
それら貴重なアイテム(特に、どこでも使用可能な携帯可能小型手回し発電機内臓サーチライト)がいわゆる“被災地ビジネス”や被災者感情に漬け込む“ぼったくりビジネス”で、ここぞとばかり儲けようとするヤカラの手垢にまみれた手になるべく渡らぬよう、
時にしたたかに、
時にきびしくルートを確保することだった。

しかし、卸値といっても数が数だけに決して安い買い物ではない。
また、「敵」の急増も悩みの種だった。
そのうち、それなりの資本金がある企業がカネになるビジネスとして幾つもの仕入れ業者を押さえてしまった。


DSC01188 (1024x685).jpg












結果、もちろん単価はうなぎ上り。
とても私個人などがどんなに頑張っても太刀打ちできるようなハナシではなくなってしまった。

また、応援だけはしっかりしてくれても具体的な協力となると、呼び掛けにはなかなか応じてくれない人間のあまりの多さ。
たった一ヶ月分の酒代をセーブすれば済むハナシで、それほど生活に支障をきたすことのないヘルプで十分だったのだが、
何某かの見返りを求めようとしてくるのにはホトホト参った。

まあ、そんな訳で例の「プロジェクト」は3週間ほどで打ち切りにせざるを得なかった。
(その間、ヘビースモーカーの私は一番安い240円の『echo
』を根元まで吸い、食事は納豆とバナナとパンケーキ、最寄り駅まではバスを使わず30分以上かけて毎日歩き、映画館通いの大好きな私は配給会社が決めた映画の試写で我慢し、もちろん昼食も晩飯も出掛け間際に作った弁当オンリーで外食は一切せず・・・・・・たった3週間で9キロも痩せ、顔もゲッソリして、友人に「コークでもやってんの?」なんて訊かれる有様)。

もしどんなダイエットにも失敗して悩んでいる方がいるのなら、次回行う予定の私のプロジェクトに参加されればよろしいかと思う。

       ◆

 話を戻そう。

冒頭の電話は、そんなささやかな支援物資がどれだけ生活に役立っているのか、誰に感謝してよいのか、と様々な手段でようやく私の連絡先を知ることのできた方からの報告であった。

そして、そんな「ありがとうございますコール」はつづいている。
ついいましがたも。
しかし、励まされたのは逆に私であり、とりわけ今日は朝っぱらから嬉しい。

必ず、今度は違ったカタチで新たな「プロジェクト」を、おっぱじめようと固く決心した。

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次は映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の如く、どこかの撮影所で眠っている映写機を借りてきて、被災地の学校の校庭や原っぱで“野外映画上映会”を開きたいと思ってる。

ひとりでは決してできない企画だから、また(自分の仕事を犠牲にしてまで駆けつけてくれる)協力者を募ろうと思っている。
 
2011518日)


Takeshi Traubert Marumoto
丸本武

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2011年05月05日

★フォトジャーナリズムに対する過敏シンドローム★

いろんなひとがいる……

先日、幾人かの知人とこれからの “ジャーナリズム” について話し合う機会があった。

知人といってもジャーナリズムの世界とは縁のない娯楽業界の方々。 ところで私はフォトジャーナリストではない。
潜伏を主に人権侵害や難民問題についてロングスパンで取材するタイプの括弧つきの「ジャーナリスト」とでもいえばいいんだろうか。

まあそんなことはどうでもいい。

たしかに「フォト・ジャーナリスト」ではないが、写真を撮らない訳でもないし、他のフォトジャーナリストたちの仕事ぶりに敬意を払っている。


問題は先日、某フォトジャーナリズム写真展の会場を後にし、所謂
“ジャーナリズム”
について話し合った幾人かの知人たちがみせた感情的で極端な反応だ。

要点を先に述べてしまう。

“悲惨な場面や絶望的なシーンをカメラに収めて公表するという行為、それ自体がおぞましい行為であり、非人道的な行為であり、それを観る多くの人間の神経を逆撫でする行為である”、という意見がかつてに比べ、多くなってきているという点にある。

おそらく、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起こった年、【1995
年】に近い状況かもしれない(が、あいにくその年、阪神淡路大震災の時はインド、地下鉄サリン事件の時はアフガニスタンとイランに私はおり、大事の渦中にいた日本国民の潜在意識までは探り得ない)。

それはもちろん、日本が終戦以降、これまで経験したことのないような大惨事に見舞われている、という背景あってこその悲しい意識の変化だろうが、ここまで極端な反応を示すとは思っていなかった。

最も極端な意見を挙げるなら、こんなのがあった。

「事実を知らせるなんて名目で、ひとが苦しんだり悲しんだりしている姿を写真に収めて、わざわざキレイにプリントして額に入れて展覧会まで開くなんていうひとたちはみんなビョーキよ。 っていうよりアタシに言わせればそもそもこの時代、フォトジャーナリストやかれらの仕事なんて犯罪行為ね。世界中のジャーナリストなんてみんな死んじゃえばいいのよ!!


「そう、あんたたちジャーナリストなんて被災地で必死にボランティアしてる方々に比べればムシケラ同然よ、いやムシケラ以下ね。“報道” だの “正しい情報伝達”
どうのこうのなんて能書きタレて、人の命ひとつ救えないフォトジャーナリストなんてみんな死んでしまいなさい」

「アナタもそんなバカみたいな仕事いつまでやってるの? アナタがかつて優れたデザイナーで装丁画家だったこと知ってるアタシとしては、ホント残念よ。アナタが写真撮影にあまり重点を置かないで取材する “ジャーナリスト”
だってことは知ってるけど、あんな残酷な写真撮ったり見せたりしてるフォトジャーナリストと根本的には同類なのよ!」

とんでもない発言である。

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たとえ、この度の大震災や原発事故のニュースで精神的に参ってしまって、悲惨な写真や映像(それがたとえ現状を伝えるために最低限、掲載・放送されたもであろうとも)…それらを見ることが、上記の発言をした人間にとって辛く、苦しいことであったとしても、過激に過ぎる。

ちなみに、このような発言をしたのは女性であるが、芸能界においては立派な仕事にこれまで長い間従事してきた、常識をわきまえたオトナである。

ここまで過激な発言でなくとも、彼女と似たような意見を持っている方々がこの、情報過多都市:東京にも想像していた以上にたくさんいることを改めて思い知った。

本来は繊細で感情豊かで、さらに娯楽産業に従事している「女性」にその傾向が強い。なぜだろうか?


まあ、そもそも悲惨な状況下に置かれている世界中の弱者の存在を伝えることより、逆にそんなネガティヴな現実から目をそらせ、現実逃避させる「芸能」業界に携わっているのだから、いつの間にかそんな人格になってしまっても不思議ではない。

が、

問題は、

目の前にいる小生が、「フォト」は付かぬとも「ジャーナリスト」のハシクレであることを重々承知の上での発言だった、という点に尽きる。
それは暗に彼女たちがこのホンネを、知名度もありキャリアの長い他のベテラン・ジャーナリストたちに伝えてほしい、というだけのことではないだろう。

もっとも、
日本の「芸能・娯楽」産業に埋没しながらフルに働いている方々と、
貧困や国際難民……または戦争や紛争といった前線に常に立って記事や写真原稿を現地から送り続けている(フォト)ジャーナリストたちとの間に、
 強い接点があまりない、
という残念な傾向が、特にこの「日本」という国では強い。そんな背景もくみしなければならないのだろう。

(あまり気分のいいものでは……まあ、ないけれども、人間洞察としては興味深かったかもしれない)。


takeshi traubert marumoto
丸本武
posted by タケシ・トラバート at 08:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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