2013年02月09日

戯言



 

artwork1998-3.jpg



なにか新しいものをつかもうと、必死になっていた一ヶ月が、なんとはなしに過ぎ去り、
目の前には、あっという間に過ぎ去ってしまいそうでおぼろげな春が・・・

ひさびさに絵筆を振り回しながら、ひとりごとを、ちょっと高価な画用紙に、描いてみた一ヶ月だった。

活字を書き、それと対峙するのが極めて、もどかしい期間だった。

過去へ過去へと、ひたすら引きずり戻された日々だった。

多くの、ほとんど忘れかけていた、時に耽美で、時に残酷な「時代」というあやういコンセプトと添寝しなければならぬ一ヶ月だった。
あまたの妄想をかき分けながら、ミクロでマクロでミニマルでマイクロなトリップを通して、時空の歪みを、この時代の時空の歪みを、かいま見た。


無数の「セッション」を通じて……リアリティーのその向こうに揺らぐ、森羅万象の嘆きと苦しみと哀しみと、わずかなクスクス笑いに、耳を傾けたり、罪悪感を抱きながらそれらを意図的に無視してしまったり、した。


活字にすることが許されぬ領域で、まだカタチを成さぬ活字たちを、まるで未熟児を抱くモナリザの微笑みのようにどこか影・陰多き含みのある微笑みでもってして構成し構築してゆくことの、うしろめたさ……


言葉というツールを有効に用いるのがとても困難な、日々だった。
と言うよりは、
言葉をもってしてはとても表現できない事物が、幾重にも幾重にも複雑にからまり、つねに不意を突くかのように顕れては、あらゆる文脈を乱して、去ってゆくかと思えばブーメランの軌道の上にまんまと立ち竦んでいたり、と、
とにかく面倒で厄介で、おまけに不可視な障壁にぶつかりつづけ、おのれの限界を何度も思い知らされた、季節のはずれ……




文責:丸本武

posted by タケシ・トラバート at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月25日

アルジェリア


看板の出ていない、記者や編集者、それも高給取りの記者や編者がたむろす店がある。
魚介類でも、カニの季節はただでさえ熱気ムンムンの店内、すぐにオーバー・キャパシティー。
ご予算はおひとりさま数万円。
常連客とクチコミ、それだけで看板必要なしの店……

昨夜は某社の某氏と3時間近く、カニ、カニ、次々と網で焼かれてくるハマグリや特製カニみそ汁のオンパレード……。いまどき珍しい打合せも兼ねた、ひたすら、カニ、カニ
「会食」である。


これ、平成バブルの名残惜しさなんだろうか。

最後には狭い店内にも関わらず、ギターなどが置いてあり、30分ほど「アラビア&インド」ふうライヴBGMをなんとか引き受けた筆者……。
ああゆう時は、さり気なく帽子か箱か器のようなものなら何でも構わないが、チップを入れる何かを店の中央に置くべきなのだろうが、わすれてしまった。
とにもかくにも、その店の丸ごとの毛ガニ、ボイルしたばかり、網で少し焼き目を付けて、っと、食い物のハナシは置いといて、
そう、中東風ギターBGMを始めてすぐに、店内の他のお客さんもいつの間にか話題がアルジェリアでの人質問題。
擁護派と批判派、様々な論争と悲劇を生んだ今回の事件。


 
ふたりの真面目な女性.jpg

アルジェリア問題。

ところできのうきょう始まったわけではない。
古い歴史がある。
過去がある。
最近であれば1992年以降、世俗派とイスラム厳格主義派との衝突がエスカレートしはじめ、同時に急激なる国内情勢悪化。「国家非常事態宣言」。ジャーナリストの人質事件も後を絶たなくなった。
 



悪化のピークだったころは新聞の国際面のはしっこに、そんな記事が毎週のように載っていたのを今でもよくおぼえている。旅行者でもそうであった。


そしてそれは今も変わらない。
ここで、情報収集という面から見れば「丸紅は賢く、日揮はヘタ打ち」という構図にいつの間にかなってしまうが・・・・・・


過去20年間、「アルジェリア」という国は旅人にとってもジャーナリストにとっても二の足を踏ませる「国」だった。



情勢が最も悪化していた1990年代前半から21世紀にかけてはツワモノ旅行者やベテラン商社マン、豪快なジャーナリストたちでさえ――入国はさほど厳しくないが五体満足で出国できるか――という自粛感(ひとによってはスリル感)があった。


とにもかくにも「国家非常事態宣言発令中」国であったことには変わりなし。(この点について、2011年に約20年ぶりに先の物騒な発令は解かれたとのことだが、こうゆうのはカタチだけ、一年や二年でアルジェリアに対するイメージも現実も変わることなどない)。



実際、情勢が最悪だった1994頃、どうにかして入国したジャーナリストの多くは次から次へと人質になっていった。

当時、モロッコ側の国境付近では、アルジェリアに入国を試みる様々な人々でにぎわっていた。

しかし命からがら出国してきた連中の多くは、生きているのが奇跡であるかのようなリアリティのない表情をしていた。

かれらのそんな表情からは、
「アルジェリアなんか忘れて、さっさと帰ったほうがいいぜ」
などとキザに、そして恐怖におびえきった顔……

アルジェリアは20年以上たった今も、まだ世界最悪の「人質御了承」国家として君臨している。
多少なりとも現地情勢に詳しい人間ならわかると思うこと。

さらに、アラブ民主化革命から2年以上経ってもガタガタ諸国、とりわけ現在のエジプトなどを見ると、タカ派が多いのである。イスラム原理主義という言葉は安易に使いたくないので使わないが、中東のタカ派はそもそも政治音痴・経済音痴のふきだまりのようなところ。

大ひんしゅくを買うのを覚悟で書いてしまうが、人質になって殺された方々ひとりひとり、そして「日揮」という会社、目を覆うばかりの自己管理の甘さ。あまりテレビや新聞で同情調のニュースばかり見るのも良くない。事故ではあるが、アルジェリアのような土地に赴くには先述のような「死ぬ可能性大でも赴く」という覚悟が必要。

かれらは生をまっとうしたと思う。

合掌




                文責・丸本武

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2013年01月05日

ギャラの確認

タイプライター

ここ、年末年始にかけ、「ドメスティックなドタバタ」 と並行するかのように 小さな仕事をアチコチから取ってくるので必死の状態。フリーランサー、自営業の方々にとってはとりわけ慌ただしい年末年始だったと思う。
ところで 「リライト」 の仕事、ホント数年ぶりになる。


リライト、という行為そのものを あまりよく知らない方のために少々手抜き説明してしまえば、

他者が話したり書いたりしたモノを、読み物として成り立たせるための行為全般。(いわゆる書籍編集者や「編プロ」と呼ばれている方々は、仕事の中に「リライト」という行為も含まれている)。

なかにはインタヴューして、録音した膨大な時間を “テープ起こし” に割り当て――ぼくの場合は肝心なところをシャーっとノートに、自分にしか分からないようなペルシャ文字で書く、なんてことはしませんが、似たようなコト――をし、
必要でない、と判断したモノは泣いてもらってバッサリ削除。

とにかく読者が「文」を違和感なく、内容の妨げにならない表現を用い、「書物」にしてゆくプロセス……


ただし今回は、編集者がふたりも「某著者」の生テキストに筆を入れている、という異例なシロモノ。

ほぼ完成しているビジネス書なのだが「ゆる〜い読者も囲い込む!」という、かなりアブストラクトな注文

それをさらに(「第四者の目」ってことになるのか?)違った角度から少しずつ体裁を整えてゆく。
これ、かなり荷が重い……

すでに、もう、ふたりものプロの編集者が筆入れしている作品に「赤入れ」
そういった簡単な方の作業である。が、ふたつ返事で引き受けたこのカルマ、〆切ギリギリでも大丈夫だろーな、とタカをくくっていたら、デッドラインはもう明日……


終了している部分はまだ全体の20パーセントほど。
かなりマズイ状況なのです、が! 

退屈という救いようのない生理現象がもうさっそく。というより他人の文章にアレコレ手を入れるのって、基本的に好きではない作業のひとつ。
途中、不本意にも著者の世界観にあきれ返ったり、読むこと自体が飽きるうんぬん以前に、カラダ全体がどっと疲れる。

そこで気分転換にカボチャカレー作ったり、こんな風にブログ更新してみたりするのだけど、では「いざ!」となるとアタマっから退屈地獄。それでもたまに「こんなん、ただの森林破壊やん」とか、「インク屋は儲かるんかなぁ?」などと声に出して愚痴ってストレス解消(なんてできるか!)。


ところで何を書こうかと当初、頭にあったのが、「ギャラ・印税・経費」のハナシ。

けれど、『取材経費は幾らくらいが相場なのか?』だとか『お金のハナシはお早めに』などといった文章みせられても、読者の方々がうんざりするだけ……
といっても、少しくらいはと最後に、

「社会人」だとか「文化人」だとか関係なく、いま一度、自分の労働、それに対する対価、ギャランティーは、余計な手間や納得のいかないコミッションで差っ引かれたりしてはいないか、定期的に確認しましょー。
(意外とこの作業、試練!? 忍耐の連続〜だったり)

セルフ・セルフコントロール

こんとろーる


反転typewriter


文責:丸本武
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2012年12月27日

時間の中の時間

歳を喰ってふと気付くと、だんだん美味しくないのがわかる、
じゃなく、
年齢と共に時間の流れが速く感じるのは残念なことだけれど、「感じる」というのはあくまでも錯覚でしかない。

実際に時間の流れは(時間の中に身を置いている以上)確実に加速している。

それは、文字通り時間の流れが加速しているという現実から無意識の内に逃避した人類が「時間の流れが速く感じる」という幻想を生み出してしまった後の副作用のようなもの。


そもそも「感覚」や「感じ方」で時間は速く流れたり遅く流れたりするものではない。

もう少しシンプルに表現すれば、時間というコンセプトに絶対というものなどありはしない。

まず時間そのものからして科学的に極めて不安定、不規則な存在だということを改めて思い出さないとならない。


「時間」が存在したりしなかったりするという現象を理解しないかぎり、人類はいつまでたっても宇宙の「中」で時間に束縛され、右往左往しながら生き、そして死んでゆく。


なかには「時間」というもの、人類が「地球上で」生活してゆく上での便宜的な概念である、と勘違いしてしまっている方々、かなり多いのではないかと思う。

決して理屈めいたハナシをここでしているのではなく、いたって当たり前のハナシなのだが……、

だから何だというのだ、
と思われてしまえばこのブンはここで終ってしまう。

  いや、終ってしまっていいのかもしれない。

ただ、結論がないので、もう一行。


 「時間は確実に存在し、歳と共に確実に科学的に速まってゆく」
     で、よいだろうか。



             文責:丸本武

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2012年11月17日

うつ病 前夜祭!


うつ病前夜祭、というのは、「パリ祭」だとか「収穫祭」だとか「感謝祭」だとか「犠牲祭」だとかと同じように毎年必ずやってくる。

ただ、先が読めない、という決定的な違いゆえ、革命前夜祭のほうがニュアンスとしては近いかもしれない。


あるていどギリギリのところで――祭り事やら革命やらを横目に見ながら――開催時期の少しだけ前に「いつなのか」はわかる。
というのが、うつ病前夜祭。

たいてい予兆らしき心身の変化が二週間ほど前から顕れてくるのだが、
日々の雑事煩悩にかまけてなかなか気づかないことも多い。



そんなわけで、うつ病前夜祭なるうわ言、うつ病前線が完全に通過しきるまで続きにつづくのである。

ただ、自己認識できている内が花、そのまま様々なことが億劫になっていつの間にかモノホンのうつ病患者。

ほとんどの場合、前線が通り過ぎ〜前後も含めて2ヶ月ほど、というのが私のケースだけれど、
中には自覚不可能のまま行くところまで行ってしまう方々〜これからの季節、うな重のぼり警報。

「行くところまで行ってしまう」という表現は、もちろん「自殺」だとか「強制入院」だとか、ふ、の香りが漂うが、

不謹慎ながらも羨ましく思うときがある。
けれど、
私の場合は
 たまたま
  別の意味で
   「行くところまで行ってしま」った〜ことが

 過去に何度かあるようなので、

――その「羨ましい」という感情も、どのようなワケか完全に醒めてしまっているらしいということだけは知っているはずなのに詰まる果てがどのようなとこだったのかなどはクラーク・ゲイブルと共に去りぬ――

          ◆

ハナシ変わって、ニッポンいち 「ニッポンの冬」 が嫌いな小生、
べケタミンもメスカリンも効力なしの硬直メンタル・・・・・

いかにこの「日本の冬」をゴマかそうか、バックれようか、考え中。


ところで、本当のうつ病の方々にとって、今年の冬越えはかなりの試練になりそうである。
などと簡単に書いてしまってはいけないのかもしれなくもないのでサッと


この冬は昨年の自粛モードの反動
  &
キビシイ家計状況も一瞬忘れて「忘年会」で消費されるアルコール量は相当なものだろーなー、と勝手に推測。


 「忘年会」だけでなく「何々会」「打ち上げ」「打合せ」等々には付きものの「酒の席」・・・・・・

下戸で外食嫌いなオレは、毎回、「ウーロン茶」片手に何かに添え物のパセリ(肉や珍味には興味なし)をつまむ程度。
これがぼくにとってはかなりの厄介ごと。
おまけに清算は「人数分で割って、ひとり4,000円ねー!」とくる。

「4,000円」は決して安くは無い、が、驚くほど高くもない。
ただ、それが週に2度や3度もあるので数年前から「忘年会(飲み会)」は欠席、酒のない席でアラタメテ、とダダをこねるようにしてる。

フリーランスや自営で生きてる方々にとって、酒の席は大きなプロジェクトや企画が決まるところでもあるから馬鹿に出来ない。
もちろん下戸でもサクサク仕事し、集まっては食事し、新たなプロジェクトや企画をその場で通してしまえる達人もいる。
問題は、この寒くなる季節、映画のように安ワインやチーズ囲んで暖を取る、という如何にも楽しそうな輪に加われないということか……

  でもって かなりサム〜く 切ない季節の到来

traubert with grass.jpg

 
 小生、繰り返すが、本当にからっきし酒がダメなのだ。
 医者に止められてるから等のレベルでなく、
 単に「下戸」なだけ (アルコール分解コウ素・皆無症?)。
 本当にアルコール類は一口も呑めない。 コニャック入りのチョコレートでアウト・・・

ほかの皆があふれんばかりの笑顔で、なおかつ心の底から幸せな表情(絵描きのオレはどうしても人の表情の裏の裏をハンティングしてしまう)。
そんな風景を見ながら、

「俺があんなに楽しそうに最後に笑ったのはいつだったろうか?」
 と・・・・・・


お酒がせめて飲めるカラダなら日々のストレスも多少は減って、笑顔などいちいち毎回作らなくとも……
などとよく思うが、もしお酒が飲めるカラダだとしたらとっくに重症のアル中。
いま、このくたびれた世の中には生きていないだろう。

そんなこともおもう

P.S
( たしか思春期の終り頃、恋人の条件に『酒が飲めない』 『煙草が大好き』(笑)という項目を入れたことがあったけれど、のちに結婚した三人のワイフは皆、お酒が苦手でタバコやマリワナは大好きのアーティストばかりだった )


  以上!!
                      
                              丸本武
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2012年11月12日

漠然に「外国」というコンセプト 儚さ

on-na


帰国した、という感は、幸か不幸か毎回の如く、無い。
生まれ育った “ 国 ” に帰って来た、というだけでの意味で、私は “ 帰国した ” と書ける。


はたして何処から何処へ “ 帰って ” 来たのだろう……


   ◆


以前、ここでも幾度か触れた覚えがあるけれど、
  「国」という概念、
  「外国」という概念、
  「国家」という概念、
  「故郷」という概念、
  

 そして「帰着」というコンセプト……
 
(それにしても、ろくでもない空虚でオカト違いな散々たるこの鬱陶しいブン......どうしてくれよう……。
寛大なる読者に謝罪と眠剤を…… ボン・シャンカール)

 何某かを書かねばならない時、どうしても「コトバ」が内包する意味と定義に頭を悩ましてしまう。


それは、ここニッポンを取り巻く環境が、「十年ひと昔」から「五年ひと昔」になり、

現在に至っては 「ひと月ひと昔!」 になってしまっているように感ずることと無縁ではない。


そしてまた、二十世紀末以降、誰もがほんの数万円で、ときには “日帰り” までが可能になり、
「外国」という単語がたんに “ 日本国の外にある国 ” という意味、だけを、臭わしていることが、どうしても気になって仕方がない。

そもそも、ここ “ 日本国 ” も事務的手続きを済ませ “ 出国 ” してしまえば、あたりまえだけれど既にたんなる某 “ 外国 ” でしかない。
もちろん我々ニッポンジンと呼ばれる“日本国籍保有者”は、
その時点でもう、たんなる “ ガイジン ” でしかない。


さらに屁理屈を付け加えれば、この度もまた、たんに “ 外国 ” から “ 外国 ” に移動した、というだけのことである。


移動の過程において、出入国カードに必要事項を書いたりといったナンセンス?な行為には目をつむるにしても、いまだ「国」から「国」へ移るにあたって、前世紀末とさして変わらぬバカバカしさにニヒルな微笑を隠しきれない。


   ◆


だから常に私は、日本国以外の他の「国」から帰って来たとき、“ 帰国 ” という漠然とし過ぎた単語を用いることに対し、異常なまでの違和感を覚えてしまう。


 “ そのとき拠点としている土地への帰還 ”、

あるいは、響きに傲慢さが、かなり見え隠れするけれど、


 “ 来日 ” 、 “ 訪日 ” 、


 または

 “ 日本という不可思議な国への旅 ”  などと書いたりするのです。



                           丸本武   high
ラベル:コンセプト
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2012年10月06日

☆ いのちの祭り 彩光再考細孔 ☆ あっという間に3週間 !?


「いのちの祭り」collage

 

 いまだひきづったままプリミティヴな時間と
 この日々のケミカルな時間の流れを
 いまだうまく両立させることが
 とりあえず、できてない。


 もちろん先月半ばに富士山麓でおこなわれた「いのちの祭り2012」だけでなく、
今年前半期に
それなりに長く滞在した
ヒマラヤ山脈のふもと
ラクシュマンジュラ……
 

 そしてチッドラワッラーという名の小さな小さな村……
 はたまたサドゥーたちとの時間……
 ハイビスカスの紫煙、そんなかんなを全てひっくるめ

 いくつもの「時間の流れ」に同時進行され……

 「流れ」のオーバーブッキング

いま現在もまだ、いま一瞬もまだ、いや、あるいは、

 そんな激流のなかでバシャバシャやってる 自分

なーんて個人的なことはどーでよく、時間の流れどうのこうーのもどーでもよく、いや、どーでもよくはないが…… 「ついまだ先日〜」だと思ってた 「いのちの祭り(2012914日〜17日)」から、とっくに丸3週間
!?
何某かを祭りの直後に書きたかったのだけど、

その後のあわただしさ
 どさくさ
  まぐれ混む……


 とにもかくにも「時間」の管理、に、
 とかくレイジ―な筆者、
 
 
 季節の変わり目に、メルトアップ!



「いのちの祭り」collage







丸本武 takeshi t marumoto  







posted by タケシ・トラバート at 21:19| Comment(5) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月07日

核心


 

恵みの塵山.jpg


神について ぼくたちが あまり議論しなくなってから
果たしてどれくらいの月日が カウントされただろう

神について この世代が言葉するとき
「神」ではなく「神様」と なかば茶化した表現で茶をにごす


運命や宿命にまつわる 多くの議論を 意味のないこととして
葬り去ろうと どれだけ多くの人々が
まるで「運命は自分で切り開くモノ」だなんて 使い古された言い回しで
あまたのおのれが 運命というものを遠ざけ 誤魔化し

まともに取り合おうとしなくなってから

果てしてどれくらいの無為な時間が経過したのだろう


この瞬間にも「真実」は脚色されつづけ
尾ひれにトサカに口ばしまで付けられ 色とりどりにイルミネートされ
添加物や保存料までほどこされた「真実」……


それが まるでガン細胞のように世界中に散らばり
あらゆる使い古されたバケの皮をかぶり
霊長類ヒト科の生き物 その全ての魂にまとわりつき
魂のひとつひとつを守る無数の細胞の
そのひとつひとつにへばりつき 

細胞膜を破って核心に迫ろうとしている


「真実」たるものすべてが 揺らぎにゆらぎ
攻撃性が日々増加してゆく「元真実」に 元リアリティに 破られた細胞膜と同じように


剥き出しにされた核心




                             丸本武

posted by タケシ・トラバート at 07:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月01日

長もちするちょっと深めの足あとを

ふと 月がかわったことに気付く。
ほんの数週間前まで 極めて特殊な時空間にかなり長時間 滞在していたことが、
ずいぶんとまた昔のことのようで、
ずいぶんとまた先のことのようで、
その期間のことを思い出そうとすればするほど、記憶のたぐいも何もかもが 少々厚手のシースルー・ドレスとムスクの紫煙に覆い隠されてしまう。

ところで突然だけれど 筆者は子供の頃から俗にも「聖地」と呼ばれる土地、地域、等々に対して関心が強かった。

ひとり旅を始めてからも 仕事がらみであちこち漂い始めてからも ふと気付くと(大抵はその地を去ってから気付くのだけど) まるで「聖地」と呼ばれる土地ばかりを求めて旅をして来たかのような 不可思議な軌道を描き続けてきた感がある。

その地が程度の差こそあれ、何某かにまつわる「聖地」ならば、
とにかく “深入り” し、長もちするちょっと深めの足あとを あちらこちらに残してきた。
そんな行為が意図的なものであろうとなかろうと……。

でも、そういった土地に「居た」期間を一般的な時間の流れで書いてしまうと、たったの一年であったり、たったの数ヶ月であったり、ほんの数週間だけであったり する。

ところが精神にも肉体にも自覚症状が出はじめてしまうほど強烈なまでにパワフルな「聖地」の場合、
否が応でも時間の概念から空間の概念にいたるまで、
完全にグニャグニャになってしまう。

暦に関しては大抵の場合「太陽暦」ではなく「太陰暦」に支配される。

まてよ……、
「聖地」というテーマで書いていたのが「時空」だとか「暦」だとか、いつのまに途方もないテーマにハナシを持ってこうとしている寝不足な自分を「自覚」(たったいま)。

今回はひどくなる前にやめとこう……
   
   

   
posted by タケシ・トラバート at 08:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月30日

“引用告知” ◆ from the gate of sacred point ◆


 ◆ from the gate of sacred point ◆


(先の、日程が狂いに狂った取材旅行の後半……、“待機期間中”、永遠に続くかのごとく「隠遁」することになった、ガンガー上流にひっそりとへばりつく小さな町、ラクシュマンジュラ……。
その町の郊外に人知れず聖火を守り続けてきた洞窟のあるじと、インド最後の夕陽を見ながら、別れの言葉はあえて口にせず別れた同じ日の夜、現地から最後の入稿となった「報告書」を
、Webマガジン・ボヘミアンから、次のアップロード時に、引用してみたくなった)。




 
posted by タケシ・トラバート at 04:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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