2013年02月03日

文体

悲しいことに筆者であるわたくし、文体なるものいまだ心得ず。
裏紙に約5年、ノートに約5年、ワープロで約5年、パソコンで約7年、過去、散々書いて書いて書き散らしてきたわけでありますが、いまだ「文体」を取得できていない。

英語を話すアメリカでは、「スタイル」と云うらしいが、どこの国でもストーリーや本筋がみえてこなくとも「スタイル」さえキマっていれば、本を読むのは楽しい。

スタイルとはその著者の文体である。あるいは性格である。ときに、最初の数行で誰が書いたものなのかわかってしまう。

日本語もある種の流れ、がある。読んでいて、その流れが読者にとって心地よかったり、違和感をおぼえたりしなければ、しっかり文体が成立している。
ところがハナシの流れが突如として濁流に変貌したり、まるで流れていないかのように平穏に単調な行数が続いたりしてくると読者は「こいつは……あまいな」と思ってしまう。
ところが、これまた「文体」のいち表現、などと云われてしまえばそれまでのはなし。



そのような「文体」無き文章のお手本がこれである。



絵でいうところの「画法」と同じかもしれない。作品は本人そのものとかけ離れているようにたとえば一見みえても、画家のキャラが絵のそこかしこに表出してしまっている。

ところが「絵」のばあいは表現手段が限りない。



もどって「文体」の件だが、無数の漢字とカタカナとひらがなだけで「スタイル」なるものを形成するのは意外に難しい。
おそらく26文字のアルファベットと数字だけで書いている人は自分の味を出すのに四苦八苦しているだろう。
そういった意味では日本人はまだ「漢字」という途方もない玉手箱でごまかすか、カタカナをたくさん使って見た目からして読みやすくする努力をしたり、点を、乱用して、安易に、文体なるものを、強引に、作ってしまうか、逃げ道がある。

そう思ってくるとアルファベットだけで書かねばならぬ言語圏の物書きたちが、いかに限られた組み合わせでスタイルの構築にチャレンジしているか応援したくなる。



ところで、長旅をすると、長期間に渡って日本語とご無沙汰することが多々ある。そんななか、たまーに古本屋などで日本語の本をみつけてしまうと、一瞬不思議な感じがする。

本というより「画」なのだ。漢字とカタカナとひらがなと数字と記号がてんこ盛りの「絵」に見えてしまう。

それくらい日本語の本というものはヴィジュアル的付加価値、まで付いてくる。


しかしそれも「情報」が脳に到達するまでのほんの瞬間。気づくと手にしていた本は興味も何もないB級ビジネス書だったりするからこわい。

posted by タケシ・トラバート at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ジャーナル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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