2013年02月09日

戯言



 

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なにか新しいものをつかもうと、必死になっていた一ヶ月が、なんとはなしに過ぎ去り、
目の前には、あっという間に過ぎ去ってしまいそうでおぼろげな春が・・・

ひさびさに絵筆を振り回しながら、ひとりごとを、ちょっと高価な画用紙に、描いてみた一ヶ月だった。

活字を書き、それと対峙するのが極めて、もどかしい期間だった。

過去へ過去へと、ひたすら引きずり戻された日々だった。

多くの、ほとんど忘れかけていた、時に耽美で、時に残酷な「時代」というあやういコンセプトと添寝しなければならぬ一ヶ月だった。
あまたの妄想をかき分けながら、ミクロでマクロでミニマルでマイクロなトリップを通して、時空の歪みを、この時代の時空の歪みを、かいま見た。


無数の「セッション」を通じて……リアリティーのその向こうに揺らぐ、森羅万象の嘆きと苦しみと哀しみと、わずかなクスクス笑いに、耳を傾けたり、罪悪感を抱きながらそれらを意図的に無視してしまったり、した。


活字にすることが許されぬ領域で、まだカタチを成さぬ活字たちを、まるで未熟児を抱くモナリザの微笑みのようにどこか影・陰多き含みのある微笑みでもってして構成し構築してゆくことの、うしろめたさ……


言葉というツールを有効に用いるのがとても困難な、日々だった。
と言うよりは、
言葉をもってしてはとても表現できない事物が、幾重にも幾重にも複雑にからまり、つねに不意を突くかのように顕れては、あらゆる文脈を乱して、去ってゆくかと思えばブーメランの軌道の上にまんまと立ち竦んでいたり、と、
とにかく面倒で厄介で、おまけに不可視な障壁にぶつかりつづけ、おのれの限界を何度も思い知らされた、季節のはずれ……




文責:丸本武

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2013年02月03日

文体

悲しいことに筆者であるわたくし、文体なるものいまだ心得ず。
裏紙に約5年、ノートに約5年、ワープロで約5年、パソコンで約7年、過去、散々書いて書いて書き散らしてきたわけでありますが、いまだ「文体」を取得できていない。

英語を話すアメリカでは、「スタイル」と云うらしいが、どこの国でもストーリーや本筋がみえてこなくとも「スタイル」さえキマっていれば、本を読むのは楽しい。

スタイルとはその著者の文体である。あるいは性格である。ときに、最初の数行で誰が書いたものなのかわかってしまう。

日本語もある種の流れ、がある。読んでいて、その流れが読者にとって心地よかったり、違和感をおぼえたりしなければ、しっかり文体が成立している。
ところがハナシの流れが突如として濁流に変貌したり、まるで流れていないかのように平穏に単調な行数が続いたりしてくると読者は「こいつは……あまいな」と思ってしまう。
ところが、これまた「文体」のいち表現、などと云われてしまえばそれまでのはなし。



そのような「文体」無き文章のお手本がこれである。



絵でいうところの「画法」と同じかもしれない。作品は本人そのものとかけ離れているようにたとえば一見みえても、画家のキャラが絵のそこかしこに表出してしまっている。

ところが「絵」のばあいは表現手段が限りない。



もどって「文体」の件だが、無数の漢字とカタカナとひらがなだけで「スタイル」なるものを形成するのは意外に難しい。
おそらく26文字のアルファベットと数字だけで書いている人は自分の味を出すのに四苦八苦しているだろう。
そういった意味では日本人はまだ「漢字」という途方もない玉手箱でごまかすか、カタカナをたくさん使って見た目からして読みやすくする努力をしたり、点を、乱用して、安易に、文体なるものを、強引に、作ってしまうか、逃げ道がある。

そう思ってくるとアルファベットだけで書かねばならぬ言語圏の物書きたちが、いかに限られた組み合わせでスタイルの構築にチャレンジしているか応援したくなる。



ところで、長旅をすると、長期間に渡って日本語とご無沙汰することが多々ある。そんななか、たまーに古本屋などで日本語の本をみつけてしまうと、一瞬不思議な感じがする。

本というより「画」なのだ。漢字とカタカナとひらがなと数字と記号がてんこ盛りの「絵」に見えてしまう。

それくらい日本語の本というものはヴィジュアル的付加価値、まで付いてくる。


しかしそれも「情報」が脳に到達するまでのほんの瞬間。気づくと手にしていた本は興味も何もないB級ビジネス書だったりするからこわい。

posted by タケシ・トラバート at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ジャーナル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月02日

ポジション

この数年、人間の立ち位置とは? とひんぱんに考えるようになった。
自分だけでなく、国籍年齢問わず、各自のポジション。

ここでの立ち位置・ポジションとは決して「自称」であってはならない。自他共に評価があってのポジションである。
どうゆうことかと言えば、ひとはどのような社会で生きているかによって「おいしい」ポジションに身を置けるか、あるいは、身を置かざるを得ないか、ということに考えが及んだだけのこと。

現実社会の場合、それはたとえば、場の盛り上げ役。これなどは、政治という祭り事でもまったくあてはまる。記録する者いれば、記録し伝える者もいる。影で支える者や火に油を注ぐ者、あらゆる場面でおのれのポジションというのは当人の性格や容姿や体調によりけり、システムの中で動いている以上、自動的に決まってしまう。

ところである時期、自己コントロール・自己アピールが上手い人間と出会う機会が集中してあった。
共通しているのはみな、おのれのポジショニングが達者、ということである。

だれもが地球上で生活している以上、大なり小なり社会というものの中で生きている訳なのだが、かれらはガンジガラメなシステムのなかで生活し働いているにもかかわらず、みずみずしく輝いてた。自分の力量や限界をある程度知っていながら、さらにその上を歩こうとする姿はかっこよくもあった。


ポジショニングが達者、というのは、どんな場面でも真っ先にトピックの主導権を握ることができ、自分が一番らく〜に楽しめる状態に自己をもっていけるような方々のことだ。かなりうらやましい、といえる。



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