2013年04月10日

「ガーデンレタスの種を蒔きながら」を通読して



生のおもたさを、おどろくほど格調高い文体で芸術表現の域にまで昇華させることに成功した、まれにみる文芸作品である。

すべてのセンテンス、単語の用い方、なにをとっても一切の妥協はみられない。そこにあるのは著者の「コトバ」に対する真摯な姿勢であり、愛情であり、やさしさ、であるのだろう。


ここのところ読書といったら、友人たちに薦められた翻訳本を食いちらかしてばかりで、日本語で書かれた良書を見逃してばかりいた。そんななか、この「ガーデンレタスの種を蒔きながら」という、まさに読むべくして出逢ったかのような書物は、あらためて日本語の美しさ、かろやかさ、力強さ、すがすがしさを感じさせるものだった。

まず読み進む前に読者にあたえられるインフォメーションは――伴侶との二度にわたる死別――という「ヘビーな内容」だ。

一歩まちがえれば、ちまたになくもない陰鬱な「白書」となってしまう題材を、そこは編集畑という著者、ものの見事に自己啓発し、知的読み物という衣をまとい読者をびっくりさせてしまう。

また人生そのものを、季節や自然のうつりかわりに例える箇所が多いのだが、そのどれもがまったくもって「自然」なのである。

たとえば愛について、こんなくだりがある、

『ときには自分の信じる愛によって、夢を打ち砕かれることだってある。丹精をこめて育てたやさしいバラの花の棘に、手首を傷つけられるように。愛にも、季節が存在し、あまりにも愛がやさしくて、打ちひしがれる日だってあるのだ。』


一冊の本であるのにかかわらず、いく編もの愛おしい短編を読んでいるかのような錯覚におちいるのは、はたして著者である伊沢ミーシャ氏のねらいなのかそうでないのか、知るよしもないけれど、読み終えても書棚に長く置いておきたい一冊であることに変わりはない。


(書籍Info)↓
http://www.michitani.com/books/ISBN978-4-89642-401-0.html

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2013年03月30日

精神病棟から叶わぬ愛を込めて


こんなはずではなかった。

というのが、まず初めにやって来たため息。


こんなはずであろうがなかろうが、あたりを見渡せばそこは再起不可能とおぼしき患者たちの吹き溜まり。

過食症で押せばコロコロとどこまでも転がっていきそうなまあるい人たち。

拒食症で吹けば三途の河までヒラヒラ飛んでゆきそうな骨と皮の人たち。

見かけは普通でも目には見えない妖精相手にケンカばかりしている老婆たち。

ただただ途方に暮れているぼくのような煩悩たち。


とにかく参ったものである。何がどうこうして参っているのか、それが分からないから参っているのだ。

とにもかくにも、いままで「うつ」という言葉を安易に使ってきたおのれが憎らしかった。

本当にうつ病にかかってしまうと、当事者はもうある種の「死」とつねにとなり合わせ、どころか、つねに死ぬことしか頭にない。

ここまで症状が悪化してしまうと通常では理解できないような負の願望が次から次へとたたみかけてくる。

とりわけ朝、めざめたとき、天井を眺めながら、どうしてもっと早くにあの世にチェックインしなかったのだろうと、うらめしく思えてきてしまう。

そこで患者たちはふらちな思いだけでなく生への活力さえもを曖昧にしてしまう抗うつ薬や抗不安薬といったおくすりを決まった時間に投与されることになる。拒否することは許されず、その場で必ず服用しなければならない。
それは医師や看護師の責任問題に関わる重要事項である。

患者の中には、理性がはたらかぬと言って拒絶する者もいるのだが、そのために死への欲求が増幅され、人間が考えつくありとあらゆる手段で命を絶とうとしてしまうからだ。


どうしょうもない世界なのだ。

そんな、どうしょうもない世界から心身ともに回復し退院できたとしても、中にはこれまた精神医療の限界か数日もしない内に舞い戻ってきてしまう患者も多いのである。

どうしょうもない世界から身の安全を求めて入院したのはいいけれど、これまたどうしょうもない世界がそこでは繰りひろげられているのである。困ってしまう。

慣れれば多少は過ごしやすくなるかと思いきや、そうは問屋も八百屋も卸してくれへん。

程度の差こそあれ心を患っている男たち女たちとの共同生活、ひとりが回復しても必ず足を引っぱるやからがいるから安心できない。かなりのストレスである。

そもそもうつ病を根源的に治すことなど今の医療では無理なハナシなのだ。





文責:丸本武
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2013年03月28日

入院を経て 1.



ババジー





日本に帰ってくる度に、自律神経を狂わしてしまう。

もっと言えば副交感神経が機能しなくなってしまう。

もっと言えばセロトニンが枯渇してしまう。


それはたぶん何ごとにも深入りしすぎてしまう性分だからなのか、
それとも単に「旅」の振り子があまりに極端だからなのか、知るよしもないけれど、歳を取るごとにその症状がヘビーになっていることに気づく。

でも、そんな「症状」は少なからず誰にでも共通しているのではないか。


ただし今回はひどかった。

たった3ヶ月インドで、いかにもオレらしい(?)生活をしたのち、帰国してからというもの、症状はどんどんと悪化し、それを隠し隠ししながら日本で生活なるものをしていたのだけど、とうとうパンクしてしまった。

寝不足や過労やストレスからくるウツ、そこから派生する消滅願望・・・・・・

てっきり他人事だと思ってタカをくくってたのが、マズかった。


繰り返しになるが、今回はひどかった。

コトバで表現できないほどに。

精神病院にひと月半も入院しなければならないほどに。








 

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2013年03月26日

・・・


 かえってきました

 まだ全快というにはほど遠いのですが、徐々に復帰してゆこうと、あせらず

 ふと、

 ふと振り返りながら すすんでゆこうと思っております。



文責:丸本武

posted by タケシ・トラバート at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ふと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月09日

戯言



 

artwork1998-3.jpg



なにか新しいものをつかもうと、必死になっていた一ヶ月が、なんとはなしに過ぎ去り、
目の前には、あっという間に過ぎ去ってしまいそうでおぼろげな春が・・・

ひさびさに絵筆を振り回しながら、ひとりごとを、ちょっと高価な画用紙に、描いてみた一ヶ月だった。

活字を書き、それと対峙するのが極めて、もどかしい期間だった。

過去へ過去へと、ひたすら引きずり戻された日々だった。

多くの、ほとんど忘れかけていた、時に耽美で、時に残酷な「時代」というあやういコンセプトと添寝しなければならぬ一ヶ月だった。
あまたの妄想をかき分けながら、ミクロでマクロでミニマルでマイクロなトリップを通して、時空の歪みを、この時代の時空の歪みを、かいま見た。


無数の「セッション」を通じて……リアリティーのその向こうに揺らぐ、森羅万象の嘆きと苦しみと哀しみと、わずかなクスクス笑いに、耳を傾けたり、罪悪感を抱きながらそれらを意図的に無視してしまったり、した。


活字にすることが許されぬ領域で、まだカタチを成さぬ活字たちを、まるで未熟児を抱くモナリザの微笑みのようにどこか影・陰多き含みのある微笑みでもってして構成し構築してゆくことの、うしろめたさ……


言葉というツールを有効に用いるのがとても困難な、日々だった。
と言うよりは、
言葉をもってしてはとても表現できない事物が、幾重にも幾重にも複雑にからまり、つねに不意を突くかのように顕れては、あらゆる文脈を乱して、去ってゆくかと思えばブーメランの軌道の上にまんまと立ち竦んでいたり、と、
とにかく面倒で厄介で、おまけに不可視な障壁にぶつかりつづけ、おのれの限界を何度も思い知らされた、季節のはずれ……




文責:丸本武

posted by タケシ・トラバート at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月03日

文体

悲しいことに筆者であるわたくし、文体なるものいまだ心得ず。
裏紙に約5年、ノートに約5年、ワープロで約5年、パソコンで約7年、過去、散々書いて書いて書き散らしてきたわけでありますが、いまだ「文体」を取得できていない。

英語を話すアメリカでは、「スタイル」と云うらしいが、どこの国でもストーリーや本筋がみえてこなくとも「スタイル」さえキマっていれば、本を読むのは楽しい。

スタイルとはその著者の文体である。あるいは性格である。ときに、最初の数行で誰が書いたものなのかわかってしまう。

日本語もある種の流れ、がある。読んでいて、その流れが読者にとって心地よかったり、違和感をおぼえたりしなければ、しっかり文体が成立している。
ところがハナシの流れが突如として濁流に変貌したり、まるで流れていないかのように平穏に単調な行数が続いたりしてくると読者は「こいつは……あまいな」と思ってしまう。
ところが、これまた「文体」のいち表現、などと云われてしまえばそれまでのはなし。



そのような「文体」無き文章のお手本がこれである。



絵でいうところの「画法」と同じかもしれない。作品は本人そのものとかけ離れているようにたとえば一見みえても、画家のキャラが絵のそこかしこに表出してしまっている。

ところが「絵」のばあいは表現手段が限りない。



もどって「文体」の件だが、無数の漢字とカタカナとひらがなだけで「スタイル」なるものを形成するのは意外に難しい。
おそらく26文字のアルファベットと数字だけで書いている人は自分の味を出すのに四苦八苦しているだろう。
そういった意味では日本人はまだ「漢字」という途方もない玉手箱でごまかすか、カタカナをたくさん使って見た目からして読みやすくする努力をしたり、点を、乱用して、安易に、文体なるものを、強引に、作ってしまうか、逃げ道がある。

そう思ってくるとアルファベットだけで書かねばならぬ言語圏の物書きたちが、いかに限られた組み合わせでスタイルの構築にチャレンジしているか応援したくなる。



ところで、長旅をすると、長期間に渡って日本語とご無沙汰することが多々ある。そんななか、たまーに古本屋などで日本語の本をみつけてしまうと、一瞬不思議な感じがする。

本というより「画」なのだ。漢字とカタカナとひらがなと数字と記号がてんこ盛りの「絵」に見えてしまう。

それくらい日本語の本というものはヴィジュアル的付加価値、まで付いてくる。


しかしそれも「情報」が脳に到達するまでのほんの瞬間。気づくと手にしていた本は興味も何もないB級ビジネス書だったりするからこわい。

posted by タケシ・トラバート at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ジャーナル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月02日

ポジション

この数年、人間の立ち位置とは? とひんぱんに考えるようになった。
自分だけでなく、国籍年齢問わず、各自のポジション。

ここでの立ち位置・ポジションとは決して「自称」であってはならない。自他共に評価があってのポジションである。
どうゆうことかと言えば、ひとはどのような社会で生きているかによって「おいしい」ポジションに身を置けるか、あるいは、身を置かざるを得ないか、ということに考えが及んだだけのこと。

現実社会の場合、それはたとえば、場の盛り上げ役。これなどは、政治という祭り事でもまったくあてはまる。記録する者いれば、記録し伝える者もいる。影で支える者や火に油を注ぐ者、あらゆる場面でおのれのポジションというのは当人の性格や容姿や体調によりけり、システムの中で動いている以上、自動的に決まってしまう。

ところである時期、自己コントロール・自己アピールが上手い人間と出会う機会が集中してあった。
共通しているのはみな、おのれのポジショニングが達者、ということである。

だれもが地球上で生活している以上、大なり小なり社会というものの中で生きている訳なのだが、かれらはガンジガラメなシステムのなかで生活し働いているにもかかわらず、みずみずしく輝いてた。自分の力量や限界をある程度知っていながら、さらにその上を歩こうとする姿はかっこよくもあった。


ポジショニングが達者、というのは、どんな場面でも真っ先にトピックの主導権を握ることができ、自分が一番らく〜に楽しめる状態に自己をもっていけるような方々のことだ。かなりうらやましい、といえる。



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2013年01月25日

アルジェリア


看板の出ていない、記者や編集者、それも高給取りの記者や編者がたむろす店がある。
魚介類でも、カニの季節はただでさえ熱気ムンムンの店内、すぐにオーバー・キャパシティー。
ご予算はおひとりさま数万円。
常連客とクチコミ、それだけで看板必要なしの店……

昨夜は某社の某氏と3時間近く、カニ、カニ、次々と網で焼かれてくるハマグリや特製カニみそ汁のオンパレード……。いまどき珍しい打合せも兼ねた、ひたすら、カニ、カニ
「会食」である。


これ、平成バブルの名残惜しさなんだろうか。

最後には狭い店内にも関わらず、ギターなどが置いてあり、30分ほど「アラビア&インド」ふうライヴBGMをなんとか引き受けた筆者……。
ああゆう時は、さり気なく帽子か箱か器のようなものなら何でも構わないが、チップを入れる何かを店の中央に置くべきなのだろうが、わすれてしまった。
とにもかくにも、その店の丸ごとの毛ガニ、ボイルしたばかり、網で少し焼き目を付けて、っと、食い物のハナシは置いといて、
そう、中東風ギターBGMを始めてすぐに、店内の他のお客さんもいつの間にか話題がアルジェリアでの人質問題。
擁護派と批判派、様々な論争と悲劇を生んだ今回の事件。


 
ふたりの真面目な女性.jpg

アルジェリア問題。

ところできのうきょう始まったわけではない。
古い歴史がある。
過去がある。
最近であれば1992年以降、世俗派とイスラム厳格主義派との衝突がエスカレートしはじめ、同時に急激なる国内情勢悪化。「国家非常事態宣言」。ジャーナリストの人質事件も後を絶たなくなった。
 



悪化のピークだったころは新聞の国際面のはしっこに、そんな記事が毎週のように載っていたのを今でもよくおぼえている。旅行者でもそうであった。


そしてそれは今も変わらない。
ここで、情報収集という面から見れば「丸紅は賢く、日揮はヘタ打ち」という構図にいつの間にかなってしまうが・・・・・・


過去20年間、「アルジェリア」という国は旅人にとってもジャーナリストにとっても二の足を踏ませる「国」だった。



情勢が最も悪化していた1990年代前半から21世紀にかけてはツワモノ旅行者やベテラン商社マン、豪快なジャーナリストたちでさえ――入国はさほど厳しくないが五体満足で出国できるか――という自粛感(ひとによってはスリル感)があった。


とにもかくにも「国家非常事態宣言発令中」国であったことには変わりなし。(この点について、2011年に約20年ぶりに先の物騒な発令は解かれたとのことだが、こうゆうのはカタチだけ、一年や二年でアルジェリアに対するイメージも現実も変わることなどない)。



実際、情勢が最悪だった1994頃、どうにかして入国したジャーナリストの多くは次から次へと人質になっていった。

当時、モロッコ側の国境付近では、アルジェリアに入国を試みる様々な人々でにぎわっていた。

しかし命からがら出国してきた連中の多くは、生きているのが奇跡であるかのようなリアリティのない表情をしていた。

かれらのそんな表情からは、
「アルジェリアなんか忘れて、さっさと帰ったほうがいいぜ」
などとキザに、そして恐怖におびえきった顔……

アルジェリアは20年以上たった今も、まだ世界最悪の「人質御了承」国家として君臨している。
多少なりとも現地情勢に詳しい人間ならわかると思うこと。

さらに、アラブ民主化革命から2年以上経ってもガタガタ諸国、とりわけ現在のエジプトなどを見ると、タカ派が多いのである。イスラム原理主義という言葉は安易に使いたくないので使わないが、中東のタカ派はそもそも政治音痴・経済音痴のふきだまりのようなところ。

大ひんしゅくを買うのを覚悟で書いてしまうが、人質になって殺された方々ひとりひとり、そして「日揮」という会社、目を覆うばかりの自己管理の甘さ。あまりテレビや新聞で同情調のニュースばかり見るのも良くない。事故ではあるが、アルジェリアのような土地に赴くには先述のような「死ぬ可能性大でも赴く」という覚悟が必要。

かれらは生をまっとうしたと思う。

合掌




                文責・丸本武

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2013年01月11日

大麻樹脂って?


さきに写真をクリックして動画を見てから、というのもアリでしょう。

 
 
チャラス職人
 


日本ではハッシシの日本語訳「大麻樹脂」というコトバが、いささかピンとこないサウンドとして報道されたりするけれど、そんな大麻樹脂って「どうやって作るのだろう?」と、よきにつけ、あしきにつけ、一度は疑問に(?)思ったことが、読者の方の中にも多いことだろう……

そもそも大麻樹脂というものは文字通り大麻草の樹脂(そういう意味では「大麻樹脂」という呼称はフェアか……)。

1メートルあたりから人の丈あたりまで育ったメスの大麻草、そのちょうど「腰」のあたりから「トップ」にかけての主に葉に分泌するベトベト、そいつを両手でねじるように手のひらに擦りつける。



それを何度も何度も何度も何度も、繰り返す。(ただし、「クリーム」などと呼ばれるやわらかい大麻樹脂は、頂上付近のみを主にフォーカスしてしまうという、贅沢さ……)。

数十分もするとベトベトだった手のひらにゴマ粒大の茶色い「生まれたてハッシシ」がいくつもいくつも。
それらをひと固めにし、大きく大きくしてゆく。

その大きさが巨峰ひとつぶほどになれば、ひと仕事終了。


風土、風習、いわゆる土地柄によって、冷凍庫で眠ってた板チョコのようにカチンカチンにプレスしたり、
先のように巨峰大に丸めたものをチーズのようにひんやりとした地下室や洞窟で、ときに何年もねかせたりもする。


大麻樹脂で有名なところ、といと、まずはモロッコやレバノン、ネパールやパキスタンを思い浮かべるかもしれない。

モロッコからアルジェリアへつづくアトラス山脈周辺のハッシシは南欧のハッシシ・マーケットを制覇している。
またレバノンのベッカー高原で作られてきたハッシシも誉れ高い。献上用に薄く、長方形で、かたまりごとに麻地の袋にロウソクの封印、などといった古き良き時代は遠くはかなく……
他にも、ネパールなら至宝「ロイヤル・ネパール」。パキスタンでは西部バロチスターン州産のクリーム。他にも世界各地にキリがない

ところがそれら、かつて名声をとどろかせた産地も21世紀に入り、国家間情勢や対外関係上、規制を厳しくしている。なかには生産完全中止に陥っている地域もある。
かといってハッシシの生産が急に活発になってもらわれても困る。それは大抵、武器や物資に困ったゲリラの(最終手段一歩手前な)常とう手段・発令を意味する。


それは同時に、

 「貧困」
 を、また意味する。



動画について
全行程をお見せ出来れば、と思ったのですが、延々と続く単純重労働……
そんな訳で、ひさしぶりに動画。「気軽にチャラスを作るには〜……」
約30分を1分22秒と縮めたわりには、かなりシンドイと思いますが、たまには「あー、そうだったよな〜」と懐かしんでいただくのもよし、初めての方は「へー、な〜んだ」とガッカリされていただいてもよし、as U like
動画➔http://www.youtube.com/watch?v=tIBrT3tquFY 
(限定設定)



        映像責任、および文責: 丸本武


posted by タケシ・トラバート at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | カウンターカルチャー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月05日

ギャラの確認

タイプライター

ここ、年末年始にかけ、「ドメスティックなドタバタ」 と並行するかのように 小さな仕事をアチコチから取ってくるので必死の状態。フリーランサー、自営業の方々にとってはとりわけ慌ただしい年末年始だったと思う。
ところで 「リライト」 の仕事、ホント数年ぶりになる。


リライト、という行為そのものを あまりよく知らない方のために少々手抜き説明してしまえば、

他者が話したり書いたりしたモノを、読み物として成り立たせるための行為全般。(いわゆる書籍編集者や「編プロ」と呼ばれている方々は、仕事の中に「リライト」という行為も含まれている)。

なかにはインタヴューして、録音した膨大な時間を “テープ起こし” に割り当て――ぼくの場合は肝心なところをシャーっとノートに、自分にしか分からないようなペルシャ文字で書く、なんてことはしませんが、似たようなコト――をし、
必要でない、と判断したモノは泣いてもらってバッサリ削除。

とにかく読者が「文」を違和感なく、内容の妨げにならない表現を用い、「書物」にしてゆくプロセス……


ただし今回は、編集者がふたりも「某著者」の生テキストに筆を入れている、という異例なシロモノ。

ほぼ完成しているビジネス書なのだが「ゆる〜い読者も囲い込む!」という、かなりアブストラクトな注文

それをさらに(「第四者の目」ってことになるのか?)違った角度から少しずつ体裁を整えてゆく。
これ、かなり荷が重い……

すでに、もう、ふたりものプロの編集者が筆入れしている作品に「赤入れ」
そういった簡単な方の作業である。が、ふたつ返事で引き受けたこのカルマ、〆切ギリギリでも大丈夫だろーな、とタカをくくっていたら、デッドラインはもう明日……


終了している部分はまだ全体の20パーセントほど。
かなりマズイ状況なのです、が! 

退屈という救いようのない生理現象がもうさっそく。というより他人の文章にアレコレ手を入れるのって、基本的に好きではない作業のひとつ。
途中、不本意にも著者の世界観にあきれ返ったり、読むこと自体が飽きるうんぬん以前に、カラダ全体がどっと疲れる。

そこで気分転換にカボチャカレー作ったり、こんな風にブログ更新してみたりするのだけど、では「いざ!」となるとアタマっから退屈地獄。それでもたまに「こんなん、ただの森林破壊やん」とか、「インク屋は儲かるんかなぁ?」などと声に出して愚痴ってストレス解消(なんてできるか!)。


ところで何を書こうかと当初、頭にあったのが、「ギャラ・印税・経費」のハナシ。

けれど、『取材経費は幾らくらいが相場なのか?』だとか『お金のハナシはお早めに』などといった文章みせられても、読者の方々がうんざりするだけ……
といっても、少しくらいはと最後に、

「社会人」だとか「文化人」だとか関係なく、いま一度、自分の労働、それに対する対価、ギャランティーは、余計な手間や納得のいかないコミッションで差っ引かれたりしてはいないか、定期的に確認しましょー。
(意外とこの作業、試練!? 忍耐の連続〜だったり)

セルフ・セルフコントロール

こんとろーる


反転typewriter


文責:丸本武
posted by タケシ・トラバート at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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